※軽い嘔吐表現あり
「なまえちゃんってほんと優しいの」
「そういうところがちょろいんだよね」
「でも逆に信用できないっていうか」
「ああいうの八方美人っていうらしいよ」
「二学期も委員長やってくれて良かった〜」
そんな声が聞こえ出したのはいつからだったか。
「八方美人」なんて習ったばかりの言葉を使って、まるでそれがパスワードの類であるかのように使ってはこそこそと笑う。私だってもうその意味は知ってるのに。
私は静かに身を翻して踵を返す。
その子達に対して怒りを抱くことはなかった。今はただ悲しいけど、それが一時的なものであり常に流動していくものだと私は知っていた。女の子の会話ってそういうものだ。そしてグループの編成も同じ。この年頃の女の子の会話では深い意味はあろうともなかろうとも常に何かがターゲットになる。カテゴリもさまざまで、恋愛だったり笑い話だったり、ヘイトだったりする。今回はたまたま私の何かがあのメンバーのうちの誰かの目についてしまっただけ。明確に嫌がらせをされている訳でもないし、明日にはまた笑顔で挨拶をしてくるのが分かっている。それくらい、彼女達にとっては重みのないもの。風船でやるキャッチボールみたいなコミュニケーションの一つなのだ。
私はただその輪に入れなかった人間に過ぎなかった。特定の相手を作るのが昔から苦手だった。けど、一人ぼっちにはなりたくはなくて色んな人に話しかけたり、困りごとを手伝うようにしていたらいつの間にか誰からも頼られるポジションについた。けれど、私は彼女達が羨ましかった。私には軽口を叩きあったり、肩を預けられるような“友人”は一人もいなかったから。
「みょうじさん、大丈夫?」
突然、肩に触れた感触。身を翻し反射的にその人物から距離をとった。
そこには目を丸くしたクラスメイト──夏油くんがいた。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」
「あ、いや……私の方こそごめんね」
「謝られる必要はないんだけど」
「こんな時間に廊下のど真ん中で突っ立ってたから心配になるよ」と、彼は元々細い目をさらに細めてゆるりと笑う。そのしなやかな頬を夕陽が照らしていた。
「まだ帰ってなかったんだ。みょうじさん部活やってたっけ」
「委員会の仕事があって」
「あぁ、そっちか。みょうじさんいつも忙しそうだもんね。何で突っ立ってたの?」
「ちょっと考え事してただけ……かな。大丈夫、もう帰るよ。……夏油くんこそ、こんな時間にどうしたの」
彼は首元をかきながら、ただの忘れ物だと笑った。
「みょうじさんていつもしゃんとしてるよね」
しゃん、という言葉を口の中で復唱する。それもまた、そう見せてるだけのものなのだと自覚しているからか、私のうちにうまく浸透しない。
「忘れ物とか、しないんじゃない」
「そんなまさか。する時だってあるよ」
「そっか」
「うん」
「……ため息つくと幸せが逃げるって言うけどさ、あまり溜めすぎるのも良くないと思うよ」
「幸せを?」
「うーん、いや、違うか。ごめん、表現が悪かった」
「なんとなく言いたいことは分かるよ。心配してくれてるんだね」
彼とこんなにも長く話すのは初めてだった。噂ではあまり学校外での素行は良くないと聞くけれど、こうして私の視界に映る彼はむしろ他のクラスメイトよりも親しみを感じる。背丈だけでなく、精神も大人に近いというか。
「……来週は修学旅行だし」
「え、まぁ……そうだね」
「あ、そっか」
「どうしたの」
「みょうじさんが残ってた理由分かったよ。それの関係でしょ」
「うーん、当たり」
間違いではなかった。
先生達だって毎日忙しいのは分かるけど「修学旅行実行委員」なんて、本当に必要だったのだろうか。
ただ遊ぶだけでなく、何かを学ぶ姿勢を持つことも求められる行事であるからこそ、その準備期間もまた学びだというのが先生方の考えだ。それは分かるのだけど、そのメンバーの7割以上見知った顔ばかりだというのに。
「そういえばみょうじさんと同じグループだっけ」
「……あ、あーそういえば」
「よし、じゃあ当日は委員長行事なんて忘れて叫びまくろう。楽しみだね」
等と、彼はさして言葉通りでもない感情の薄い声色で、それでも私を元気付けてくれようとした。そんな彼に対して、私は歯切れの悪い返事を溢すことしかできなかった。
*
「なまえちゃんなら、どこでも大丈夫よね」と、先生が申し訳なさそうに言うのを見て「あ、私は調整に使われたんだな」ということを悟った。
修学旅行直前にして、私はある女の子と入れ替わる形で別のグループに移動になった。可も不可もない、比較的大人しめのメンバーが揃ったグループだ。私の知らぬところで、このグループの誰かがとその子の間で何かしらトラブルがあったのだろうと推測がつく。どのグループだって良かったけれど、前のグループの旅行計画も殆ど私一人で立てたこともありその努力が泡になった気分だ。やめてほしいな、本当に。
実際、特定の人を作れない私はどこに行っても同じだったのかもしれないが、選択肢すら与えられないと言うのは割と傷付くのだ。そんな事、こちらを伺うように笑う先生に言えるはずもなく、いつも通り頷いてしまった結果が今だ。
こうしてまた私は学ぶ。素直に嫌だと足掻いて見せれば、誰かが手を出してくれる。けれど、それができない人間は、ただその余波を受け入れる事しかできないのだと――。
それでも始まってしまえば胸は弾むもので、バスの窓から見える景色に透ける自分の顔はいくらか緩んでいるようだった。
のだけど。私はそのガラス越しに見つけてしまった。
「夏油くん大丈夫?」
「……うん」
「……大丈夫じゃないよね」
大きい体を丸めて一回り小さくなってしまった夏油くんを見下ろす。それでも結構な高さがあるので、私は中途半端に腰を曲げる。
本当に同じ中学生なのか。2年前までランドセルを背負っていたとは思えない。いや、そもそもこの体躯では物理的に使えなくなっていただろう。
「朝ごはん、食べすぎた?」
「……、食べすぎたかも」
「たくさん食べたのはえらいね」
「……うん、不味かったけど」
不味いものをどうして無理して食べるんだよ、とはとても言えなかった。
明らかに普段の余裕が顔から失せ、もはや蒼白としている彼を見つけた時に瞬時に嫌な予感はした。しかし席が隣でも無い私にできることは無く、かと言ってここで手を上げ先生に報告するのは躊躇われた。理由は、こういうのを大事にされたく無い人だろうと思ったことと、案の定、視線があった彼が口元に人差し指を充てていたからだ。今思えばそんなことに従う必要なんてなかったのだけど。
彼の努力もあってか次のパーキングまで彼は耐えた。トイレ休憩のために次々に降りていく生徒達を横目に私はようやく彼に声をかけた。
「どうしたの? 酔った? それともお腹痛い?」
「多分、酔った……吐きそうな感じ。揺れがなくなった……だけほんの少し楽になったけど……」
もし動けるのなら外の空気を吸った方が良い、と提案すると彼もそれに同意した。
しかしバスを降りて少ししてから「ごめん、吐く」という短い宣言と共に、彼は地面に吐瀉した。
その瞬間、私は彼の心配よりも自分の対応を省みていた。私の選択は間違いだっただろうか、いや、むしろこういう時は出してしまった方がむしろ楽なのでは――いや、でも。
……そして今に至る。
「……かっこ悪いとこ見せちゃったね」
「何言ってるの。気にしないで。口濯いだ方がいいよ。水筒持ってこようか?」
「……いや。まだいい……それよりちょっと、落ち着きたい、色んな意味で」
私は人前で吐いたことは無いけど、確かに身内でも友人でもない相手の前で粗相をした時のショックは、想像するだけでも耐え難いものがある。体調が悪くなるのは仕方ないことだし、こちらは気にしていないとしても、彼本人としてはそうはいかないのだろう。
何と言葉をかけていいのかも分からず、私はただポケットから出したハンカチを彼に差し出した。
ふ、しゃがみ込んだ彼の腕がこちらに伸ばされる気配を感じた。何かに縋るように、目線もくれずにただ宙を彷徨う手。それを視界に入れた時に、私はサッと血の気が引いた。
胸を打つ、この感情。下がったように思えた体温は、むしろ逆の反応を示し出す。知っていたからこそ焦っていた。心拍数のあがるこの感じを私は知っていた。こんなもの、抱いていいものじゃない。
「夏油くん、大丈夫?!」
その声に私は伸ばしかけた腕をすっと引いた。そして地面のそれに足で土をかけた。
異常を察して走ってきた女子に、私は安堵のような歯痒さのようなものを感じつつもそれを見ぬふりして応対する。
「木野さん。私、先生に知らせてくるから、代わりに夏油くん見ててくれる?」
同じグループでしょう?
――その一言は、なんだか自分を貶めるような気がしてすんでのところで飲み込んだ。
私は知っているのだ。女の子は弱った男の子に弱いって。同情や憐れみをときめきと勘違いしてしまう事を。私は、知っているのだ。
*
小学4年生の時だ。クラスメイトの男の子のお父さんが不慮の事故で亡くなった。その時の、普段はムードメーカーで輪の中心にいた彼の感情の抜け落ちた顔を見て、私達は胸を痛めた。まだ幼いながら心から悲しんだし、可哀想だと思った。その放課後、一人の女の子が言ったのだ。「A君、可哀想」。勿論それは皆同じ気持ちだった。けれど年齢的に人の死というものに対面した者は少なく、どう声をかけていいのか分からないまま皆立ち尽くしていた。そしてその数日後、同じ子が言った「私、好きかも」という言葉。それに同調して同じようなことを口にする他の女の子達──。
その時、私はその子達を否定も非難も出来なかった。だってその人の事を思って悲しむ事は間違いじゃないはずだ。一時的だとしても、……普段と違う姿に心を痛めて何とかしてあげたいと思う気持ちは本物だ。衝撃的なことがあった後だからこそ、フォローしたいという気持ちもある。献身的な感情。相手を想い心を痛めて意識してしまう感情。それは、小さいけれど私の中にも確かに芽生えていた。
“弱ったものを見て、その隙間に入りたいと思ってしまう気持ち”。果たしてあれが本当に初恋だったのか、初恋に数えてしまっていいのか、恥ずべきことではないのか──私は未だに答えを出せずにいる。
それに、夏油くんは元から女子からの人気は高かった。体格はいいし、人当たりも良いし――。
「ずるいなぁ」
「……夏油くん」
「気にしないって言ってくれたよね」
「……?」
「かっこ悪いところ見せたって話」
「ああ……」
「私が気にするんだよね」
首元を掻きながら彼はポツリと呟いた。
こうして彼と二人きりになるのは、修学旅行のあの時以来である。シュチュエーションは、いつかのような放課後の廊下だった。
「一人にされた時寂しかったな」
「そんなこと……一人じゃなかったでしょ。あの後最初から先生に報告しとけば、って後悔したし…」
「まぁどっちにしても吐いてたとは思うけど、マジでキツかったから。……あの時はありがとう」
彼はPP包装のハンカチを差し出した。新品を買い直してくれたのだろうか。パッと見ただけで、私のシンプルなガーゼのそれより可愛らしい柄が刺繍されている。お母さんとかお姉さんに選んでもらったのかな、なんてどうでも良いことを頭の隅で考えつつ、私はそれをうまく受け取れずにいた。
「……私、お礼言われる筋合いは無いよ」
「……どうして?」
「やな奴だから。弱っている人みるとどきどきして、勘違いする」
夏油くんは少し面を食らったような顔をしていた。それもそうだろう。
「私だけに弱みを見せないでよ。好きになったらどうするの。そんなの最低だよ、私」
「最低なんかじゃないよ」
「勘違いだよ。夏油くん、弱ってたから。見つけたのがたまたま私だっただけ」
「ずるいやつになりたくない」と私は声を絞り出す。それが全てだった。品行方正でいなきゃ、私は私でなくなるから。
彼は私の目を真っ直ぐに見つめていた。あぁ、でもそうだ。彼には開口一番にずるいやつだとバレていたのだった。
「知ってる? みょうじさん」
「……?」
「前に、陰口言われてたでしょ、クラスの女子に」
「……あぁ、聞こえてたんだ、あれ」
「あの時、私が話しかけた時……何ともなさそうな顔してたけど、」
本当は、顔が真っ赤だった。多分、怒りと悲しみで涙を必死に堪えてたんだね。
溶けるような笑みでそう続けた彼に、しばらく私は言葉が出なかった。
「――ああ、今も同じ顔してるよ」
「……そもそも私は、別に強いつもり、ない、から」
「そうだね。でも他のやつらはそんな風に思ってない。私は強者でありたいと思ってるけど」
「……意外とそういうとこ図太いよね、夏油くん」
「うん。でも、意識してくれるならみょうじさんの前では弱くなってもいいかなって思うんだ」
なに、それ。どういう言い回し。
「ね、だからもっと弱いところ見せてよ」
「……そ、そんな、わたし……」
「自分の感情を否定しないで」
彼の言葉が耳の奥にこびりつく。
「その気持ちが偽物だっていうんなら、それでもいいから」
(食べ過ぎたのは呪霊)