『いたどりくん!』
何よりも、それこそ親のそれよりも聞いた声色で知らない誰かを呼んでいる声がして振り向いた。呪術高専の制服を着た少年に駆け寄っていく一人の少女。彼らの周囲には少しずつ人が増えていき、よく見るとその中には見知った顔もあった。
禍蛇の見せる夢とは違う。明らかに意識のある状態で、脳が切り替わるように急に差し込まれる情景。それはまるでテレビのチャンネルを切り替えるような軽率さで起こるのだ。
これは幻覚なのか、もしくは領域展開に巻き込まれたのかと最初は疑ったが、今はそれとは違うある確信があった。
「……ふふ、」
禍蛇の見せる夢と別に、白昼夢まで見るようになってしまうなんて。「普通」からかけ離れた自分の現状に観念の笑みが溢れる。この隙だらけの状況、禍蛇どころか低級呪霊に殺される可能性を思えば仕方のない事だった。普通の人間ってこんな漫画で良くある精神世界みたいなところに来る機会おそらく無いと思うんだけど。(けど悲しいかな、フィクションと違うのは意識を取り戻した時それ相応の時間が過ぎてしまっているのだ。)禍蛇に殺されてきた人生を経ている私からすると、もう何が起きても動じることはない自信すらあった。
そんな私と対照的に、目の前を走っていく彼女の瞳は光輝いていて、周りの景色を全て吸収しようとする様はまるで水晶玉のようだ。
よく知る顔であるはずなのに、まるで違う。柔軟な頬肉が上がると、涙袋が強調される。年頃の女子を装って憧れたフリをしていた眼輪筋。無いと思っていたのに、しっかり存在していたんだな、とまさに他人事のように思った。
私とあちらの世界の間には見えない壁のようなものがある。……本当に、液晶越しの世界を見ているような気分にさせる不思議な空間。
「みょうじなまえ……」
私はあの時気付いたのだ。それは本当の私の名前ではない。「みょうじなまえ」とは、この体なら本当の持ち主に本来与えられた名前だったはずだ。そして、今目の前に明らかに“私ではない私”が映っている。
みょうじなまえとして顕現した時に感じた世界に対する強烈な違和感。まだ何も思い出せず、呪霊を恐れていた時の私は自分を「転生者」ではないかと思い込んでいた時が懐かしい。
「そりゃそうだよ。私の在り方は正しくないもの」
自然の摂理を外れてる。本来ここにいる方がおかしい。そう、おかしいのはいつも私の方。気付けば禍蛇に捉われる生を送るようになっていた。
禍蛇によって殺され、気がつくと新たな体で目覚めている。それが大体人間としての自我や意識的記憶が芽生えるといわれる3〜5歳の頃だ。まるで脱皮を繰り返す蛇のように、幾多の肉体を経由して私はここにいるのだろう。
かといって好きでこうなったわけではない。数百年生きたところでこの怪奇を終わらせる術も分からなかった。
そんな折に見えた光景。見えない壁にそっと触れた。
あれはきっと未来。そして原因はともかく、これは未来視に近い現象なのだろう。謂わば今の私は過去と未来に板挟みにされている。本来、普通のことなのかもしれないが、私にとってそれははじめてのことだった。だからこそ、目が離せないでいる。
いつかの未来、ここに私はいなくなる。本来の持ち主に体を帰すべき時が来る──。私は心の内でその事を察していた。
「そこには本当に禍蛇はいないの……」
彼女の瞳は未来を見据えている。過去に捉われる私にとっては何よりもそれが眩しかった。
彼女の存在が羨ましくて、焦がれて。けれど疎ましいと感じることはない。むしろ不思議とその感覚が心地よくも感じたのだ。
怪奇、闇の中へ
「いやぁ、まさか、一年生に二人も呪付きがいるとはね!」
目隠し越しに突き刺さる視線。隣にいた乙骨君と顔を見合わせるも、すぐに目を逸らされた。
「流石にもう看過出来ないよ、みょうじ」
「……はい」
「聞きたいことはたっくさんあるからさ。昼食抜きになっても許してね〜」
「私はともかく乙骨君には食べさせてあげてくださいね……」
さすが六眼というべきか。最強の名を冠する彼にとっては、私が陥っている状況などおそらくずっと前から察していたのでは無いだろうか。それこそ、私がこの学校に来て初めて出会った時から。彼にはそう思わせる程の力がある。
「みょうじは本当に大人に頼るのが下手だね。いつも『ワタシハモウコドモジャナイカラ!』って顔してる」
もう子供じゃないから。裏声で告げられたその言葉が両肩に重くのしかかった。あながち間違いでも無いけれど、それを彼に言ったところで何になるというのだろう。でも、やはり五条先生の前では子供らしく肩を窄ませることしかできない。教師と生徒という関係性は不思議なものだ。
乙骨憂太。彼には何故か私にしか見えなかったはずの禍蛇を視認することが出来た。
それと同時に私は新しい光景を垣間見た。禍蛇のいない情景。禍蛇よって殺されることのない少女。私の未来。乙骨君に出会ったことで、何かが確実に変わりつつあった。
その一つが、今のこの状況だ。
「禍蛇、ね……。……それが君がずっと隠していたものか」
口元に手をあてて五条先生は思考する。曰く、今までは彼の六眼を持ってしても認知出来ていなかったはずの禍蛇が、今日になってその呪力を感じ取れるようになったという。
その結果、放課後にこうして乙骨君とともに空き教室に呼び出しをくらっている(私に出会ってしまったばかりに編入翌日に担任から呼び出し、しかも昼食の保証が無いなんて申し訳なさすぎる)。
「今は?」という彼の声に首を振って応えた。この部屋に禍蛇は出現していない。
「やはりそうか。僕も今は何も感じないんだよ。どういうきっかけだか知らないけど、やっぱり里香ちゃんの呪力に反応したのか……。憂太、本当すごいねー」
「えぇ……ぼ、僕も、何が何だか……。禍蛇、っていうんですか? 他の呪霊とは、少し違う感じでしたけど……」
「うーん、僕には見えないんだよね〜。かろうじて感じるのは残穢にも近い微量の呪力だけだ。そもそも高専のアラートが現在進行形で働いていない。……他の呪術師が察知できているかは分からないから、また別途確かめないとね」
祓いたくても存在してなきゃ払えないわ〜、と大袈裟に落胆した声で続けた。
五条先生と初めて会った時のことを思い出す。あの時、はじめて禍蛇が私以外の呪術師に見えていない事を知ったのだ。当時は微かな希望が潰えて崖から突き落とされたような気持ちになったが、理解してもらえるようになったらなったで宙に浮かされたようなこの据わりの悪さは一体なんだろう。
「──みょうじから見て禍蛇にランクをつけるなら?」
「あ、えっと……そうですね……」
謂わばこれは尋問であるのに、そう声をかけられるまで他人事のようにぼやぼやとした意識でここに立っている自分がいた。五条先生の問いかけにより、慌てて平静を装う。
「最初はほぼ無害でした。……でも、現れる度に力を増していっているのは確かです。少なくとも、今は私と同等くらいなので3級……高くみて2級といったところでしょうか」
「ふぅん、2級ね。憂太はどう思う?」
「え、まだ階級? の考え方がよく分からないんですけど……!」
「あぁ、ごめんごめん! そりゃそうだよね〜。まだ高専に来て2日目の憂太には無理か。……まぁ特級呪霊“里香ちゃん”より重いのはそうそういないからさ。あ……、女の子に重いとか言っちゃ失礼だった?」
「えぇ……まぁあまり良い気はしないんじゃ……」
「……憂太は真面目だね〜。これからもっと呪霊について勉強しようね」
乙骨君の目が泳ぎ出したところで、五条先生はまたその黒い目隠し越しに私を見つめてくる。
「どんどん強くなるってのは? 下手すると特級レベルまで行きそう?」
「分かりません。けど……私の成長に比例しているんじゃないかと思っています」
「邪神アバターみたいなやつってことね、OK! 出現条件は?」
「明確にルールがあるのかはまだ……。ただ現れる場所や距離に制限は無いと思います」
「なるほどね、それは結構厄介だな。……よし、禍蛇についてはこれくらいで──次はみょうじ、君自身のことについて聞かせてもらおうか」
「わ、私の……?」
「前々から硝子に聞いてはいたけど、君、死なないって本当?」
言葉に、詰まる。
「ごめんね。言いにくいこともあるかもしれない。みょうじが気ぃ遣いで優しいのも分かるけどね、こればかりは見逃してあげられない」
彼の長い腕が伸びてきて、私の頭の上に着地する。その声は優しく、けれど厳しさも孕んでいる。
「し、しなないってそんな事あるんですか……?!」
「あり得なくはないんだよね。天元様の例もあるし。ただ不死にも色んな形がある」
「……天元様……?」
「まずは自分の状況をしっかり把握しなくちゃダメだ。その呪いの事も勿論だけど、戦闘と同じだよ。状況、戦力を把握しないとこちらとしても対策は立てられないからね」
「自分の、状況──」
「そう。だからみょうじ、今分かる事だけでも報告。……もう誤魔化しや言い逃れは無しだよ」
ゆっくりでいいからね、と言いながら、五条先生は近くにあった椅子を引いて座った。少し間を開けて、乙骨君と私も近くの椅子に腰をかけた。
目を閉じる。今まで見てきた幾つもの惨憺たる夢。いや、禍蛇に呪われた数多の過去。それらを少しずつ思い出し、整理する。そう言った機会が今までなかった訳ではない。けれど、それはあくまで自分の頭の中の話だ。誰かに話す想定なんてしてこなかったから、どう伝えるべきか、真に話すべきことは何かを思考するのに少し時間を要した。
「……“私達”は、どういう訳か不死身の性質を持っています。でも決して不老ではない」
「(私、達……?)」
「あくまで死ねないだけなんです。回復の速度は多少早いけど、腕を切り落とされたら生えては来ないし、頭を切られたら思考はできない。ただ生物的には生きている……んだと思います。病でも死にません。ただ痛みは感じる」
「随分と言い切るね。それは、確かめたの?」
五条先生の声色は、単調で、張り詰めた糸のような緊張感を纏っていた。私は慌てて首を振る。
「……子供の時、禍蛇を初めて見てから……夢を見るんです。それは寝てる時だけじゃなくて。……その……多分、私と同じ呪いを過去に受けてた人達の夢を、禍蛇が見せてくるんだと」
私はそれが全て“自分が経験したこと”であるとは言えなかった。事実として、記憶が、私の中に今あるのだと言うことは、言うべきではない。それが、みょうじなまえへのためだと思ったから。
「その人達はどんな目に遭っても死ねる事はなくて、とても長い間生きた人もいました。……でも、必ず最後には禍蛇に殺される」
「それって──」
「はい。正確には、不死というよりも、私の死は禍蛇であるというだけ。禍蛇によってのみ私は殺される。……夢の中でそのことを知って、私はこの学校に来たんです」
「……はー、ある種タイムリミット付きの呪いか」
「そ、そんな……」という震えた言葉を最後に、乙骨君が沈鬱な顔をして押し黙った。五条先生は相も変わらず表情を読ませないことを徹底している。
改めて思い知らされる。私達は禍蛇によって殺される為に生きているのだろうか。自ら言葉にすると、身が引き裂かれるような想いだ。だって、何をやっても無駄ということに他ならないから。
「デメリットしかないな。プラナリアの方がまだ不死身の名に相応しいだろ」
「はは……。これ、言いにくかったんで言えなかったんですけど、五条先生ってやっぱりデリカシーないですね」
「ごめんねぇ。僕これでも怒ってんのよ」
「う……それは、すみません」
もっと早く僕に打ち明けて欲しかった、と。小さく溢れた声に、聞かなかったふりを出来る程の無情さはまだ持ち合わせていない。更にのしかかる居た堪れなさに、膝を擦り合わせた。
五条先生はまたも私の顔を見つめてくる。今度はそのまま下へ、下へ、そしてまた上へとその視線は滑って行った。
「天与呪縛のようにも思えるけど、微妙だな。断言できない。……そもそも禍蛇が見えたのは生まれつき?」
「いや、小学生の頃からで……」
「……術式でもない。君のそれは僕の六眼には何も映らない」
「そうですね。禍蛇は今まで私にしか見えないと思っていました。何故、乙骨くんにも見えるのかは私でも分からなくて……」
「外部からの呪いにしては、学校側が感知出来なさすぎるしねぇ」
「……あの、他に頼れる人はいないんですか?」
自分の名前が出たことで気を取り戻したのか、恐る恐る乙骨君が手を挙げる。
「やだー憂太、僕じゃ頼りない?」
「えっいやそういう訳じゃなくて……こう、もっと上の人とか」
「……いや、下手にみょうじの事が上に知られるとまずいんだよ」
間髪入れずに、彼はその提案を否定する。
「それは、どうしてですか?」
「憂太も最初に味わったでしょ? 特定条件以外で死なない呪術師なんて、上の人間が知ったらどんな非道な目に合わされるか分かったもんじゃないよ」
「えっ……」
「みょうじにとってはデメリットしかない。そして何よりまずいのは、禍蛇はみょうじ以外にとっては大した脅威ではないという点」
彼の言う通り、実際禍蛇が私以外の者に危害を加えた事は一度も無かった。
「先兵や囮としてこき使われるくらいならまだマシだ。封印はないだろうけど、最悪モルモットか母胎とされるか……」
瞬きを繰り返す乙骨君。そんな彼に対して天を指差し、五条先生は乾いた笑いを溢す。
「呪術界でもずば抜けて倫理観狂ってる奴等しかいないからね」
「……」
嫌な想像が頭を駆け巡る。夢で見てきたもの。過去の私達を時に苦しめたのは、その殆どが「異物への畏怖や羨望」から狂気的な行動を取ってしまった人達ばかりだ。憎く無いと言えば嘘になるが、時代的に私からはかけ離れていることもあり、彼等の気持ちも今なら少しは理解できる。人は気が狂うと判断力を失う。恐怖を感じると正義も倫理も捨て去って自分の身を守ろうとする。生存本能──生き残るためにそう出来ているのだから。
だが、五条先生の指す“上の人間”はおそらく彼等とはまた違う。感情の暴走ではなく、理性も理解もあるからこその狂気。ただ機械的に、利用されるために生かされることの方がよっぽど恐ろしいと感じる自分がいた。
どんよりと沈んでしまった空気を晴らすように、「とにかく現状他言はしないこと!」と先ほどまでより僅かに明るくはっきりとした発音で五条先生は続けた。
「よーく聞いて。みょうじがこれからやることは三つ!」
3本の指を立てた掌を顔の前に突き付けられる。体も長れければ指も長い。
「一つは、禍蛇の性質や発生条件等々を明らかにすること。呪いである以上、何かしらルールはある。必ず法則的に動いているはずだから」
彼は言葉と共に指折る。
「二つ目は、禍蛇の呪いを解く方法を探すこと。禍蛇の性質・由来が分からない以上、憂太と同じようにはいかない可能性が高い」
これに関しては僕の方でも調べてみるから安心して、と彼は軽く胸を張る。
「そして三つ目は──何があっても諦めないこと。……これが一番大事だよ」
以上が、五条先生から提示された私が今やるべきこと。
彼はきっと分かっていたのだ。私が今まで誰にも言わなかったことから、すでに一人で行き着いてしまっている事──どう足掻いたって無理だと心の底で思い切ってしまっていることを。
本当、めちゃくちゃなようで生徒をよく見ている。
「あ、ごっめーん! 後もう一個あった! 四つ目。しばらくの間、憂太の任務にみょうじも同行ね」
「……え!?」
「……?」
「大丈夫、同行させるのはみょうじだけじゃないよ。他の一年も任務階級に応じて随時同行させる。理由は憂太のためでありみょうじのため。禍蛇を視認できるのが本人以外で憂太しかいない以上、彼女を守れるのは君しかいない」
「で、でも僕はまだ何も出来ないんですよ? それなのにみょうじさんを守るだなんて……」
「憂太ならできる!」
ビシッとグッドポーズを突き出し乙骨君を怯ませながら彼はそう言った。
「みょうじは勉強熱心だし、人のことをよく見てるでしょ。憂太に色々教えてあげて」
「……分かりました」
「で、でももしかしたら里香ちゃん……いや、僕がみょうじさんを傷付けてしまうかも」
「そうならないようにする為に君らを一緒にするのさ。それに、最悪の場合でもみょうじは死なない。そうでしょ?」
「……!」
「ああ、憂太、怒らないで。勿論、その最悪は引き寄せちゃダメだよ。……お互いに」
そんな無茶な。
「五条先生」
「なーに?」
「このこと、真希達には……?」
「禍蛇の呪力に気付いていない限りは、まだ」
「そう、ですか……」
「知られたくないんだね」
「彼女達、先生にも、信頼しているからこそ誠実でありたいと思ってます。でも……」
握りしめた拳が震える。私は救いを差し伸べる手よりも、自分の未来を優先している。
「……実はまだ五条先生にも言えてないことが」
「分かってるよ」
黙り込んだ私に、大きな手が伸びてくる。次の瞬間には、髪をくしゃりと歪められる。
「呪いの内容が内容だからね。君のその意思は尊重するよ」
「……五条先生が先生で良かったです」
「もっと早く言って欲しかったな、それ」
さーて、お昼、どうしよっか。彼の明るい声は一際部屋に響いた。
「みょうじさんの持ってる短刀って小さいのに威力が結構あるんだね」
「これは既製品みたいなものだけどね。すぐダメにしたり失くしちゃうから」
「あー……確かに……」
先の戦闘を思い浮かべたのか、乙骨君は口を少し緩ませた。
私の使う呪具。それは短刀であるが故に当然の如くリーチが短い。そのために投擲して呪霊に攻撃することも少なくないのだ。
「私は真希みたいにスタミナも力も秀でてないから、手に持つものはなるべく軽いほうがいいんだ」
重量的にも、価値的にも。だから真希の使っている物と違い、私が振るうものにこれといった名前は存在しない。気持ち的にも楽だ。呪霊を祓うという仕事を請け負っているとは言え、一般の出の私が名のある呪具を扱うということは当然それなりの責任と重圧が伴うものだから。
幸い私は呪力のコントロールだけは比較的得意な方だった。呪力量自体は大したことが無いが、上手く節約しつつ短刀に乗せることができる。思えばこれも、過去の記憶を“見た”ことが大きいのかもしれない。
「僕も、人生で刀を持つ時が来るなんて思わなかったなぁ。予想よりずっと重くてびっくりしたよ」
「でも、なかなか様になってるよ」
「本当? ええと、ありがとう……でいいのかな」
乙骨君は照れたように頭を掻いた。私は彼の袖の奥に見えた傷を見ていた。
お世辞でもなんでもなく、乙骨君と任務をこなす中で、彼の成長は稀に見る速さだった。刀自体の重量に慣れるまではしばらくかかっていたが、ある程度震えるようになってからその技術は磨かれていく。彼をそうも成長させたのは、真希の存在、そして何より――。
『憂太っあ゛』
「里香ちゃん──!」
ずるりと、乙骨君の影から現れた呪霊──祈本里香。通称“里香ちゃん”。直接相対するのはこれで二度目である。しかし決して慣れることのない威圧感と呪力量は、快調時でも瞬時に具合が悪くなる程だ。
乙骨君に絡みつくようにして揺れていた彼女は、ふいに人差し指を私の眼前に突きつけた。
『コレ嫌い』
「みょうじさんの事……? コレとか言わないでよ里香ちゃん! みょうじさんは僕の大事な──」
他意は無い事は分かり切っているが、彼の選ぼうとした言葉はこの状態ではよろしく無いものだと察し、呪具の柄で咄嗟に小突く。
「だ、大事な先輩だから……」
「そう思ってくれるのは有り難いけど、一応同期だからね」
『らィ……、キ、キライ……』
里香ちゃんは変わらず照準を私に合わせている。もう数センチ指を押し込めば私の額には穴が空くだろう。乙骨君はなんとか収めようとしてくれているが、比例して私は少し冷静になりつつあった。里香ちゃんからの明確な嫌悪は感じるものの、それにしては随分と落ち着いている。初対面時に見せたあの衝動性を感じられなかったからだ。
『つ、……き』
とても強い呪い。けれどそれは、まだ僅かな希望を残している。それを五条先生も見抜いているのだ。
「私が女だから、里香ちゃんに嫌われちゃったかな」
「う、うーん、どうだろう……確かに女の人には特に嫉妬しやすいみたいだけど、だからといって男ならいいって訳でも無さそうだし……」
「ふふ。愛されてるね、乙骨君」
「でも、僕が里香ちゃんを縛り付けてるのかもしれなくて」
だからこそ制御できるかのしれない可能性がある。
……私のそれとは違うのだ。
「大丈夫、乙骨君ならきっと呪いを解けるよ」
「……え」
里香ちゃんはそれからしばらくして姿を消した。
少しだけ、乙骨君が、里香ちゃんが羨ましいと思った。
死してなお離れぬ手。絆。愛。その繋がりは一般的には歪なものかもしれない。でもそれは確かにひとつの繋がりだ。一人だけでは生み出すことのできない、価値のあるもの。人との繋がり、私にはそれがとても眩しい。
私にあるのは精々、過去の自分自身と禍蛇との繋がりだけだった。
時には自分で捨ててきたそれを、今更眩く思ってしまうなんて。
死にたくないという気持ち。
誰も愛してはいけない。そんな気持ちを無意識のうちに抱いていた。
けど、本当にそうだったのだろうか。思えば私はあまり家族と関わろうとしてこなかった。この身体、みょうじなまえの両親。
近頃は夢の中のことにばかり気をやっていて、頭のうちに彼等を思い浮かべるのは随分と久しかった。
二人はいったいどんな人間だっただろうか。なまえにはなまえを愛してくれる家族がいる。けれど「私」は彼等に対して──それこそ記憶を取り戻す前から──諦観にも似た想いを抱えた目で見つめていなかったか。
頭の中に廻るのは、かつて出会った人々の顔。いろんな時代、いろんな場所で私は多くの人と出会い別れてきた。男の肉体で生まれた時もある。
誰も愛してはいけないなんて酷いこと、「あの子(なまえ)」に課したくない。だって私は知っている。私は確かに家族を愛していた。そして本当はもっともっと誰かを愛したかった。いつかいつか、ひとりでも複数人でも、それがたとえ異性や人間でなかったとしても、何かを愛し抜いて生きたかった。
そうだ、彼女の、彼の、あの子の名前は──。
ぱた、ぱたたっ……
軽い音がして水滴が顔に落ちる。……雨が降ってきたのだろうかと、顔を上げ私は戦慄する。
ぱっ、ぱた、びちゃっ……
視界が青く染まる。
「……ま、さか」
声が震える。今私の中には残酷にも一つの確信があった。
そう思う事が、いけないのか。顔を拭った手のひらには、絵の具のように深く青い液体がこびり付いている。
目の前に現れた鱗に、私は知覚する。
生きる喜びを、死にたくないという願いを抱いた時、それは現れるのだ。いや、もしくは過去を想う、「この魂を持続させたい」と思ってしまったその時に。
覚醒する意識に反して、呼吸がどんどん浅くなる。
「ぅ、ううっ……うあ゛……!」
つみ。罪。積み。摘み。──詰み。そんな二文字が頭の中を巡っていった。
「みょうじさん!」
乙骨君が、刀を振り抜いた。ブン、と鈍い音と共に禍蛇の輪郭が揺れる。
据物切りの如く、斜に斬られた禍蛇の体が二つに分かれ、上部が流れに沿って地面に滑り落ちた。正確には、落ちきる前にいつの間にか出来ていた青い水溜まりにとぷんと沈んで消えていった。
しばらくの間、私も彼も口を開くことは出来なかった。依然として私の呼吸はひどく乱れたままで、里香ちゃんと初めて遭遇した時の比ではない脂汗が額から滲み出ていた。
「ご、ごめん……気を抜いてた、ありがとう……」
「無事でよかった……。僕でも、禍蛇を斬る事ができたんだね……」
「うん……」
私以外の人間に禍蛇が見えた、という事自体初めてだったが、禍蛇が見えていれば消滅させることも出来るのだという証明がこの時成立した。
「乙骨君、私の顔に何かついてる……?」
「え? いや……何も」
「そっか……」
額を脱ぐとただ透明な汗が指に染みていくばかりで、そこに青はもうなかった。
「少しは役に立てたかな」
やはり里香ちゃん、いや乙骨憂太──彼の呪力は私の比ではない。里香ちゃんの呪力を刀に込めているとはいえまだそれは完全ではない。
それでも、まだ動きに迷いのある一閃ですら、禍蛇を消滅させるに至る威力がある。
「役に立ったどころじゃないよ。私の……命の恩人だよ」
バラバラになったピースが、少しずつその穴を狭めていく。その都度、禍蛇は私を補足する機会が増える。
全てのピースが揃った時、今の私はそこにいるのだろうか。いや、きっと浮かび上がる色は形は、“私”とはきっと何もかもが違うのだろう。
同時に湧き上がってくる。得体の知れない焦燥感。何かをしたい、何かをしなければという使命感にも似た渇望。今まで私の中になかった感情。戸惑いを超えて最早気味悪ささえ感じる。
この体をあの子に返すまで。あの最善の未来に至るまで、私は後何回禍蛇と対峙しなければいけないのだろう。そして、その残り時間はもう少ない。しかし、未だ辿り着けない答えがある。
こうして今必死に考えている“私”は誰なんだ。未だ解決していない謎解き。子供の頃に自覚したこの魂は、一体誰のもの。