始まりは月だ。
この罪は引き継がれる。

 

月の果てから

 

 私は所謂、「転生者」というものだと思う。

 5歳の頃だっただろうか。突然視界が開けるように、思考が鮮明になった。白い視界に映るもの、触れるものの大半を“私は知っていた”。母の身に付けていたものも、父が読んでいたものも、今いる白いこの部屋がおそらく病室であるということも。
 聞くまでもなく大抵の物を知っていたし理解していた。私はみょうじ家の一人娘で、何かしらの病気または怪我によって、病院暮らしをしていた。(これは、その時の状況から察したことだが。少なくとも父と母以外の身内らしい身内は見た覚えが無い。)
 包丁は危険だが便利。海月には触ってはいけない。アメリカの初代大統領はジョージ・ワシントンで、世界で一番長い川はナイル川。常識としてインプットされている知識。そして、年不相応に博識な子供は気味が悪いということも、何故か知ってしまっていたから、その事を両親に告げる事を躊躇った。そしてその選択は今も間違いではなかったと思う。正解でもなかったのかもしれないが。

 どこかおさまりの悪い気持ちを抱えたまま、私は生きてきた。目の前にある日常を、与えられた生活を享受していた。
 そんな日々に明確な変化が現れたのは、父や母の同行もなく一人で歩き回れるようになった頃のことだった。他の子供の声が響く真昼間の住宅街。突如訪れた強烈な違和感に私は立ちくらみを起こす。がくりと視界が傾いていくような感覚がして、今までの自分が少しずれた。知っていたはずの常識が、世界が崩れていく。

 何かが、壁にへばりついている。それは蜥蜴のようにも見えるが、その大きさは一般的に日本に存在するそれではない。手足は蜘蛛のように端くれだっており、その先に繋がっているのはまるで私と同じ、人間の掌で……太い尻尾の先は切り落とされている。
 あれは、何? 遠目に眺めていると、それは私を見つけた。その蜥蜴のようなものは此方を向いてはいなかった。けれど目が合ってしまった。切れた尻尾の断面。注視していなかったそこにあったのは、幾つもの小さな目玉。

 呪霊──。
 後に其れ等がそう呼ばれていることを私は知る。

 自分の悲鳴が、周囲の建物に反響する。それはただ悍ましいものを見た恐怖によるものだけではない。
 そんなはずはない。そんなものはこの世に存在するはずが無いと、“頭が現状を否定する”。つい昨日まで自分自身についてはともかく、世界に対して違和感を抱いていなかった。だって“私”はこの国で生まれたから。「日本という島国」で生まれたからだ。何故か元々持ち得ていた知識と今目の前にある現実に大した相違は無かった。それなのに、その認識自体が誤っているのだと脳が叫んでいる。“この人生は間違っている”と。何を持ってそんな事が言えるというのか。それも分からないけれど。
 冷や汗が止まらない。頭はどんどん冷めていく。

 そうして気付いたのだ。もしかして、これは。これは、いつかどこかで聞いた「人生2回目」。誰かが読んでいた、所謂「転生もの」という奴なのではないか、と。

 呪霊はそれから何度も私の視界に入ってきた。しかし、どうやら私以外の人間にあれは見えていないらしい。
 最初の頃は、その都度怯え発狂や嘔吐を繰り返す私に対し、父や母を初め周りの大人達は何も出来ず手を拱いていた。私を慕ってくれていた友人達は私のことを避けるようになった。それはそうだろうなとも思う。勝手に世界が狂っていくのだ。それが彼らのせいではないということだけは理解していた。しかし、私のせいで引越しも余儀なくされてしまった時──引越をしたところで何処にでもそれらがいると分かった時、ようやく少しだけ冷静になれた。

 小学校に通い出すと、以前よりも更に呪霊と遭遇する機会が増加した。当時私はまだ其れ等をお化けもしくは妖怪の類だと思っていたため、フィクションだと思っていた怪談や都市伝説等に、学校由来のものが多いワケを理解し一人納得していた。
 大抵の場合、建物に張り付いていたり、道ゆく人の肩や背後にいる。建物にいるものは基本的にある一定以上距離を取れば追いかけてくる事は無いし、他の人間にくっついているものは、目を合わせようとしなければこちらに気付くこともない。仮に襲われた場合も、小さいものであれば箒や石で殴れば逃げていった。盛塩なんかも多少は効いているように見える。
 一度だけ呪霊によって骨折する程の怪我を負った。それは結果として不注意による階段からの落下で片付けられた。実際には、呪霊に足を取られたのだが。あんな痛い思いはもうしたく無い。
 恐ろしいことに変わりは無いけれど、対処法さえ分かってしまえば随分と気持ちが楽になった。経験を重ねる度に、上手く躱せるようになっていく。諦めたという方が正しいだろう。強制的にそういう立場に立たされる内、否応なく“慣れていく”自分がいたのだ。

 そうして、今の現状を受け入れる度、反比例するように膨らんでいく思いがあった。思わずにいられなかった。
 5歳の頃からずっと抱いていたある違和感は今も消えずにここにある。何故、私は今ここにいるのだろう。何故、私はあらゆる事を知っているのだろう。呪霊が見えるのは何故。そして、何のために生きているのか。
 父と母の私を呼ぶ声が、日を重ねる毎に遠くに感じるように思う。だって、“私”の父と母は、違ったはずだ。鏡で見る顔が、目も、口も。私の名前だって、そうだ。

 違和感はやがて明確な齟齬となって私を澱ませる。

 本当の“私”は一体誰だ?、とそう思わずには──。
   

 

 そして私は、異形と対峙する。

 12歳の誕生日を終えた、静かな月夜。小学校を卒業すると同時に与えられた自分の部屋には、まだこの体には大きい白く塗装されたベッド。その真ん中にぽつんと点がつくように丸くなって、いつもと同じように思いに耽っていた時だった。

 それは、最初ただの影に見えた。けれど、電気を消し、僅かな外からの光でしか照らされていないこの部屋では、私の影すらも見つけられない。そんな暗闇の中で、確かにそれは見えた。不気味にも存在を示すかのようにゆらゆらと揺れて、そこに。
 シルエットだけを見れば人型に見えるが、腕や脚は無い。輪郭は不確かで水彩絵の具のように空間に黒々と滲んでいる。おそらく顔面にあたるであろう部分は鱗のような物に覆われており、目も鼻も口も存在しない。しかし私を見ていることだけは分かった。鱗の隙間から染み出すのは、粘度のある青黒い液体。血液のようにも、樹液にも見える。それを気にするそぶりもなく摂理のままにぼとぼとと垂れ流し、床を浸しては少しずつこちら側を浸食する。本来脚に当たる部分には、蔦ようなものがいくつも絡まり蠢いていた。
 理解を超越した奇怪への恐怖。本能的に私はアレを拒否していた。

「な、何なの……」

 呪霊はそれまでにも様々な形のものを見てきた。本来はその事事態が信じられないのだが、確かに今世(と仮に呼称する)では生まれた時からあらゆる呪霊を見てきたのだ。しかし、こんなに、大きなものは見たことが無かった。こんな、何処か人にも似たようなものは。他のものとは違うと言うことだけは、その時の混乱した脳みそでも理解できた。

 何をするでもなくただ私を前に佇んでいる。それがまた不気味だった。首に近い部位を少し擡げては、また体を揺らす。揺らす。揺らす。揺らす──。
 
 

 そこからの記憶はない。人間は理解の許容を逸脱した状況に陥ると動けなくなるものだ。

 その日、私は夢を見た。あの異形によってなす術もなく殺される夢だ。
 振り下ろされる何か。えげつない痛みに襲われて、声にならない悲鳴をあげて布団を翻し転げる。そうして床に腕を打ちつけてようやく、そこに何もいないことを知る。夢の中で無くなったはずの腕は変わらず肩からぶら下がっていて、血が滴り落ちることも無かった。ばたばたと、階段を上がってくる足音。ドアを開けた父と母の顔には心配と、ほんの少しの恐怖が滲んでいる。
 ──一体どこからが夢でどこまでが現実だったのか、その境界線が分からないことが何よりも不気味だった。

 
 異形はそれから何度も私の前に姿を現した。初めて出会った時と同じように、私の見える範囲にただ佇んで、いつの間にか消えていく。夢で見たように、私を傷つける素振りはなかった。しかし、それをただ素直に享受しきれない。夢で見た、感じたものは私の中に強いトラウマを植え付けた。
 他の呪霊と同じように対処しようと心掛けるも、あれを視界に入れた時の、心臓を鷲掴みされたような感覚に脂汗が出る。どうしても慣れる事ができなかった。無視をしようとしても、それがいる間はどうしても意識の内に滑り込んでくる。そして、遭遇した日は必ずセットで夢を見るのだ。

 少しずつ、現れる頻度が上がっていくのを嫌でも理解した。最初は一ヶ月おきくらいだったものが、3週間、1週間と短くなっていく。それは夜だけでなく、授業中や、帰り道、旅行先──時間や場所を問わず、ふと向けた視界の先にすら顕現した。同時に段々と私に近付いていることに気づいてしまった。
 そして、夢に見る光景も次第に様相を変えていく。あの呪霊とは別に、知らない人間の姿が見え隠れするようになる。
 

『  、愛しているよ』
『本当に、本当に。だからこそ悲しい』
『辛い。憎い。子の顔も見れないままに終わるこの体が』
『お願い、誰か私を助けて』
 

 何度も夢を見る。登場する人物は違えど、内容はどれも似たり寄ったりのものだ。
 夢に出てくる人間や情景は基本的にランダムだ。たまに一度見た内容を見返したり、その前後をみることもある。元来夢とはそう言うものだと云われているが、“生まれてこの方”私の見る「夢」と云えば、ただ見るだけのものではなく──起きた時まで感触や匂いが体にへばりついているである。その上、夢の終わりは誰かの死と相場が決まっていて、非常にタチの悪いものだ。どんなに懇願しても、どれだけ手を打っても──私が実際夢の中で体験したように──最後はあの異形に殺されていく者達の夢。

 顔を上げると、先程まで見ていた暗鬱とした光景とは真逆の、賑やかな世界が広がった。給食を食べて、気持ちよく昼寝を謳歌していたと思ったらこれだ。胃の中の物が逆流しそうな気分の悪さに私はそれを睨みつけた。

「お前が私に夢を見せているの?」

 問いかけは拾われる事なく地に落ちた。前よりも近い距離で、それはただ私を静かに見つめていた。もう、随分と近くなった。誰かの走る振動で机がカタカタと揺れる。

「あれは、誰なの。お前は何なの」

 答えはない。
 禍蛇はただそこにいる。けれど私には確信があった。こうして禍蛇が近づく度、私の死もまた近付いている。今はまだ見ているだけでも、いずれは夢と同じ結末になるのではないか。
 

 どんなに根深い恐怖も、時にはくるりと裏返りそれを上回る程の感情が溢れ出すこともある。液体が突沸するかの如く、一瞬のことだ。私はその時初めて異形に対して怒りを抱いた。──ここが教室である事も忘れ。
 手の届く距離にあった、コンパスを掴み私はそれを振り下ろす。

 気付いた時には私は体の至るところから血を噴き出し倒れていた。何かが倒れる音と、悲鳴が遠くで聞こえる。

「か、だ──」

 そうして私はほどなくして悟ったのだ。あれは夢ではなく、私の結末だと。

 今日もまた、視界の端に青黒い水溜りが映る。私はあれを「禍蛇(かだ)」と呼ぶことにした。そう、夢の中で聞いたからだ。

「なぁにしてんの、新入生」

 反射的に来た道を戻ろうとした私を、「君の教室はあっちだよ」と軽やかな声が静止する。
 はっとして声の主──全身黒尽くめの男性に軽く会釈をした。
 いけない。最近は敏感になり過ぎて、あれを見るとすぐに周りの解像度が落ちてしまうのだ。

「すみません……呪霊がいたのでついよそ見してしまって」
「あら、もう祓ったの? 優秀だねぇ」
「……いえ」

 あれは、いくら祓ったとしても無駄なのだ。再度視線を先程の見ていた方へ向けると、今はただ真っ直ぐな廊下が続くばかりだった。

「教師の方ですか?」
「廊下歩いてる僕が不審者に見えるー?」

 正直、隠された目元と黒一色のシルエットからして不審者にしか見えないのだけど。何も言わないでおいた。流石に初対面で相手の機嫌を損ねるような悪手は取らない。

「せっかくだから一緒に行こっか。……って事で君は誰? 今年は新入生が多くてね〜。名前覚えてないんだよ」
「みょうじです。……私の他に何人いるんですか?」
「あー、あの変な……おっと何でもない。今年はね、珍しく君を入れて四人だよ!」

 4本指を立てて顔面に突きつけられる。身長に比例しえ指も長いため、随分と迫力がある。四人だけなら覚えていて欲しいけど、この人は担任とかじゃ無いんだろう。というか、もしそうだったら不安だ。 

 東京都立呪術高等専門学校。それが、私が今いる場所。
 私がこの学校に通う事になったのは、中学校での出血事件がきっかけだった。結果的にあの事件は私の自傷によるものと警察からは整理された。書類上はともかく、頭としてはそんなもので整理できない出血量だったため、クラスメイトや教師をはじめ、ついには父と母からも腫れ物のように扱われることになってしまった。そりゃそうだろうpart2だ。血を流した分、私の頭は少し冷静になっていた。
 あの時、ようやく悟った自分の死に対して、何か行動を移さねばと決意した。入院中に父のノートパソコンを借りて、今まで敢えて避けていたあの悍ましい者達や現象について調べるようになった。
 そうして辿り着いたのが、呪術高専。最初は宗教系の学校にしても名前が物騒だと尻込みしたのだが、父と母の反対を押し切り受けた面接で私はそれが“本物”であると理解したのだ。

 そこから、私の日常はまた大きく変わる。呪霊と呪術師の存在、呪力について──何も知らなかった私に夜蛾校長は今までよく無傷で生きてこれたものだと感心していた。正確には無傷ではない。運良く後遺症も残らない丈夫な身体なだけである(逆にそれが自己PRになったのかもしれない)。
 そして、呪霊を祓う方法もその場で教えて貰ったのだ。
 私は、今まで自分の身を守る術も持っていなかった。だからこそ、自分のためにもっと知るべきだと思ったのだ。

「幸い今年は女子がもう一人いるから、仲良くなれるといいね。……いや、君は利口そうだから皆とそれなりに上手くやっていけるんじゃないかな」

 この人は随分と軽薄そうに見えるけれど、人のことはよく見ているらしい。今までの小中学校で会った教師達も最終的に私をそう評価する人が多かった。
 なんて事はない。多分、私は人生2回目だから。人から嫌われずに紛れる方法をなんとなく知っているだけだ。

「でも君は他の新入生と比べると呪術師としてはガチの初心者だからね。その分頑張って勉強してもらうよ」
「……覚悟は、してます」
「その意気やヨシ!」

 他愛もない会話を続けるうちに、ある部屋の前に着く。今までの会話から少しずつ察していたけれどもしかして、やっぱりこの人私の担任なのか。そっか……。と、そんな複雑な思いを抱いていると、「みょうじ」と彼が私の名を呼んだ。

「……呪術高専はね、天元様の結界が張られてるから、登録されていない呪力にはアラートが鳴るんだよ」
「……天元様?」
「つまり呪霊がいるとすぐ分かる訳。知ってた?」

 布越しに、射抜かれる。

「君はさっき、何を見てたのかな?」
「──そんな」

 震える声は尻すぼみに消えていく。そんな私に対して、顔がお化けみたいに真っ白だ、と彼は可笑しそうに笑った。

 デリカリーの無い人──それが、五条先生に対する第一印象だった。

 

 夢を、夢を見る。
 瞼を開く。真上にある光源が眩しくて顔に手を当てた。

 今日見た夢はかなり衝撃的だった。
 その人は、私が夢に見た中でもより古い時を、一番長く生きていた。生まれつき天性の呪力を持った肉体だったのだろう。身に纏っていた衣服からして時代はおそらく平安の頃。呪霊が強大な力を持ち始めた時代。尼の姿をした美しい女性。
 彼女は日々呪力を高め、禍蛇に争い続けた。その力で呪霊を祓い、薬を作り人々を救った。線は細いがとても強かで優しい人だった。けれど彼女は生涯誰も愛さなかった。慈しみを与えても愛は与えず、そして受け取ることもない。何も気に留めず、笑う事もなく、それ故に罵られる事があったとしても心を揺るがす事はなかった。「諦めていたのよ」自分の性を、彼女は5歳で転生した時から知っていたのだろうか。その呪力によって、禍蛇の存在を最初から知っていたのだろうか。

 額から指へと、じとりと嫌な汗が移る。それを拭こうと体を起こした時、ようやくそこが自室でないことを悟った。

「お? 起きてるみたいだな」

 がらり、と戸が開いたかと思うと白い巨体がそこをくぐり抜けてきた。いや、正確には白と黒か。

「パンダ」
「驚いたぞ〜。結構危なかったらしいな。2級だったか? ……意外と元気そうで良かった良かった」
「え、ああ……そうだね。ちょっと頭痛いけど、意識はしっかりしてるよ」

 パンダの後ろからさらに二人、同級生が部屋に入ってきた。狗巻くんと、真希──二人は非番だったのか私服のようだ。
 そうだ、今日私だけ任務だったんだ。

「呪霊は……」
「俺らが呼び出されなかったってことは祓ったんじゃないのか。覚えてない?」
「……あー」

 そう言われて痛む頭で記憶を巡らす。すぐ引き出せる位置にある記憶が先程の夢なのが歯痒い。

「多分、頭打ったんだろ。記憶が飛んでんじゃないのか」
「そ、そうかも……」
「高菜……」

 パンダが気を遣って明るく察してくれる反面、狗巻君は神妙な顔を崩さない。あまり心配はかけたくなかったのだが、自分の非力さがまた悔やまれる。
 そこでふと、まだ一度も口を開いていない彼女の視線に気付く。「真希?」と声をかけると、彼女は眉を顰め苦い顔で呟いた。

「……お前、また痩せたな」

 予想外の言葉に、私は一瞬反応が遅れてしまった。
 自分の手を見下ろしてみる。肩を上げて二の腕、そして胸元。……正直、自分ではいつも見ているものなので違いが全く分からない。

「……そうかな? 体重計持ってないから分からないな」
「花の女子高生だろ、買えよ」
「は、花の……」
「そもそも! 最近、任務詰めすぎなんだよ。たまには休んだ方がいいぞ。俺とは違うんだからな!」
「ありがとうパンダ。……でも、私も早く二級になりたくて、理解した上で引き受けたから」

 高専で任務を重ねるうちに、呪力をある程度コントロール出来るようになった。しかし自分の術式は未だ発動せず、学校から支給された呪具によって呪霊を祓う日々。それに呪具の扱いに関しては、同期の真希の方が遥かに上だ。
 非術師の家系であること以前に、何もかもが圧倒的に出遅れてしまっている。

 ある日を境に、それまで静観していただけの禍蛇は、時折明確な殺意をもって私に攻撃してくるようになった。
 禍蛇が私以外には見えない原因は不明なままだが、まだ新人呪術師の私でも祓える程度の相手、だった。最初は中学の時のような跳ね返りを警戒していたのだが、あれ以降そういった現象は起きていない。呪力の乗った攻撃であれば問題ないのだろうか。
 呪具で刺せば、禍蛇は悶えながら消える。しかし、それで終わりではなかった。
 祓っても祓っても、相も変わらずまたふとした時に現れる。──消えないのだ。何度やっても、何度やっても、視界の端にぬらついた鱗が映る。心なしか、禍蛇は大きくなってゆき、同時に、呪力も増していくのだ。その内、禍蛇を視界に捉えた瞬間に攻撃を仕掛けなければこちらがやられるようになる──。

 私は焦っていた。禍蛇が他の人に見えない以上、私の能力を超えた存在になったら? 幾度も見せられたた鮮明なバットエンドが私を待っている。

「まぁ、その気持ちは尊重するけどなぁ」
「しゃけ」
「それ以上軽くなったらさ、今度は私に何メートル飛ばされるか実物だな?」
「真希に飛ばされるのは痛いから嫌だな」

 私がそう零すと彼女は笑った。──笑って、口を閉じて、その後、彼女は真っ直ぐに私を見た。

「……みょうじは、何のために呪術師になった?」
「え、それは……」

 禍蛇に殺されたくないからだ、とは言えなかった。今の私には誰かを救いたいと思えるほどの余裕はない。崇高な目標も、善意も、申し訳ないが片隅に追いやってしまっている。けれど、それを親しく思っている友人に知られたくはないという醜さだけは持っていた。
 少し迷って、慎重に言葉を選ぶ。

「……生きたいから、かな」

「嘘吐き」

 即座に返された言葉に、息が詰まる。

「今日の任務もそうだ。お前、首を齧られてたんだって、硝子さんから聞いた。なのに、こうして喋れてる」

 あれ、致命傷だよ。普通なら。──真希の言葉が、深く突き刺さる。

「致命傷?」

 そんなこと、硝子さんは私に教えてくれなかった。私を傷つけないため? いや、待て、前もこんなことが無かったか。どこで? ──夢の中で?

 ドッと、体全体が震えた。じわりと滲む汗。
 まさか。
 まさか。
 嫌な予感がした時には、視界の端に、いつの間にかそれはいて。

「ゔっ、ぐぁ……」
「みょうじ!?」

 浅い呼吸を繰り返しながら、私は突如猛烈な痛みを訴える自身の体を掻き抱いた。
 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い! 腕が、喉が、首が、腑が、どこかしこがあらゆる痛みを訴えている。──知っている。この痛みはもう。何度も何度も味わってきた。


 そうだ。私は夢の中で何を見てきた? 何か、とんでもないものを見落としている。思い出せ。

「は、は、」

 夢の中で散っていった人間は皆共通して禍蛇に殺されていた。夢の中心にあるのはいつも底知れぬ痛み。『では、それ以外の要因は存在しなかったのか?』

 思い出される光景。彼らはどんな人生を歩んできた?

 ……首を切っても死ねない身体を、畏怖され虐げられたもの。けれど彼女は土の中で生きていた。
 ……信仰の末、貢物として海に沈められたもの。しかしどんなにふやけても彼は生きていた。
 ……流行り病にかかっても、死ねないまま。冷たい床で誰にも看取られずに禍蛇の迎えがきた少年。
 ……どこもかしこも健康であったにも関わらず、呪力がないために何が起きているかも分からないままに終わった男。

 ……禍蛇に争い、争い続けて、その内どこにも辿り着けないことを悟った女。

 あの人は数百年の時を生きた。けれど、寂しい人生だった。
 そう、それもまた、私が通ってきた道の一つ──。
 あれは、私の過去であり、終着点だ。幻ではなく、実際に起きた事象を夢に見ている。あれは、全部、私。

 不死の身体。縛りつけられた生。夢の中で見た人たちは、どんな致命傷を追っても、自らの意思で終われなかった。時には動くことも、呼吸することも、思考ができずとも、生命としての活動を終えることはない。

 “私達”は、どういう訳か禍蛇によって生かされ、禍蛇によって殺される。そして、次の体へと遷されては同じことを永遠と繰り返している。
 理由なんて知らない。目的なんて知らない。きっと、そんなものどこにもない。禍蛇は何も教えてくれない。

「 何でこんな思いをしてまで生きてるんだろう 」

 それに気付いた時、湧いてきたのは底の知れぬ絶望。ずっと目を背けていたそれに、足を滑らして落ちていく。その先に、いくつもの瞳を見た。

 暗転。また、夢を見る。
 ただ、それはいつもの夢とは様子が違った。どこか曖昧で、靄のかかったように不明確。チャンネルを切り替えるように、いくつもの景色が畝り合い混ざりながら目の前を流れていく。それはまるでいつか見たゴッホの絵のよう。

 ……どこからか、懐かしい音がする。ふと視線を下ろすと足元で携帯が鳴っていることに気付いた。少しチープな着メロが非現実的な空間に響き渡っている。特に警戒するでもなく、自然と私はそれを取り上げ耳に当てた。

『着信入ってたからかけたけど、何?』

 この声は一体誰だろう。電波が悪いのかノイズがかったそれに耳を凝らそうと携帯をより押し当てた。電話の主は、こちらの返答も待たず、次々にテンポよく言葉を交わす。私ではない誰かと会話をしているようだ。私ではない、誰か?

『あぁ……心配しなくても大丈夫だよ。本当さ。友達……親友もできたし』

 いや、私はこの声を知っている気がする。一体、どこで聞いたんだろう。随分と久しぶりに聞く声だ。

『そっちは……俺がいなくなって、平和でしょ』

 一方的に続けられる会話。返事をしようにも思った通りに言葉が発せられることはない。もともとそんな機能などなかったかのように、唇は空を食むだけ。

『ごめん、もう電話切るよ。体には気をつけて。□□□と□□□にもよろしく』

 待って、と心の内で叫ぶ。その瞬間、ノイズは機体を越え自分の四方から響き渡った。私は思わず携帯を手放した。
 

 大きな雫が打ちつけるようにして私を濡らしていく。身体全身に降り注ぐのは青い液体。腕が、指が、青く青く染まっていく。ノイズだと思っていたものは、雨音だった。画面の割れた携帯が、底の見えぬ青い水溜りの中へと沈んでいく。

 慌てて手を伸ばそうとして水溜りを覗く。そこに映る光景に、私は息を呑んだ。

『──どうして□□□□が死ななきゃならない?』

 ……そんなの、わたしが一番知りたい。

「転校生を紹介しやす!! テンション上げてみんな!!」

 担任の嘘みたいに元気な声に、ただでさえ静かな教室が無音になった。

「……上げてよ〜。みょうじに至っては顔が死んでるんだけど」
「一応、退院したてなので……」

 あの後、皮肉にも早めに退院はできた。やはり、私の身体は普通ではないらしい。 念の為、しばらく任務は控えられているが、代わりに書類作業や座学を埋め込まれることになった。
 ……思い返せば小学生の頃の骨折も、比較的回復が早かったように思う。今思えば、全て禍蛇の影響によるものだったのだ。
 しかし──病院で見たあの夢。いつもと違うあの夢がどうにも引っかかって、授業が身に入らないのだ。今だってそう。担任の異様なテンションについていける状態ではない。

 そんな私の返答に対し、お粗末な泣き真似をしだした男を真希が鼻で笑う。

「随分尖った奴らしいじゃん。そんな奴のために空気作りなんてごめんだね」
「しゃけ」
「まぁ、君らただでさえ今トゲトゲしてるもんね〜。そんなままだと、転校生、怖くて泣いちゃうかもよ?」
「……」

 病院での一件以降、真希とギクシャクした関係が続いている。会話中にいきなり発狂して気絶したのものあり、狗巻君とパンダにまで気を遣わせてしまっている。小学生の頃のように腫れ物扱いされるのはごめんだが、早くどうにかしなきゃなと思う反面、どう伝えるのがベストか分からず、時が解決してくれるのを待つ、というずるい選択肢を選び続けている。人生2回目どころかn回目だからこそ、人間関係はうまく構築できると言っていたのはどこのどいつだったか。
 ──だって、信じてもらえるはずがない。信じてもらえたとして、これ以上足手まといにはなりたくない。そんな強がりだけで、今もここにいる。

 「ま、いっか。入っといでー!」と、五条先生が扉の向こうに声をかけた。もしかしてずっと廊下にいたのだろうか。気持ちを一新するつもりで、顔を向けた。

 扉が開くと同時に、ゾ、と身体が振動するような畏怖を覚える。

「乙骨憂太です。よろしくお願いしま──」

 その言葉は、真希の攻撃によって遮られた。誰も彼女を止めることはしなかった。少年の背には、かつてないほどの呪力を纏った何かがいたからだ。

 “里香ちゃん”の出現による一悶着があった後、彼はそのまま真希と一緒に任務に駆り出されていた。その中で真希が負傷したらしく、任務の充てられていない私が病院に乙骨君を迎えに行くことになった。そしてそのまま乙骨君に学校を案内することになった。(本当は真希の見舞いをしたかったのだが、彼女は毎度それを厭うことを理解している。)
 そもそも十分にここがどんな学校か伝えずに転校させた上、初日から任務へ連れて行った五条先生には流石に驚いた。てっきりあの任務は真希だけで行くものと思っていたから。……何もかもの順序がおかしい気がする。

「ごめんね、五条先生っていつもああなんだ」
「い、いや……」
「でも、良い先生だよ。それにすごく強いの」

 五条先生は普段おちゃらけているけれど、人のことはよく見ている。その印象は出会った時から変わらない。病院での一件も、彼には何も言っていないが大方予想はついているのだろう。そういう人だ。
 ブレのない芯の強さ。それは最強という肩書きにふさわしく。

「真希も、本当はすごく優しいんだよ。今は、ちょっと……私のせいもあって虫の居所が悪かっただけで」

 長い廊下を歩きながら、乙骨君に笑いかける。
 見たところ、彼は少し気の弱い性格のようで、初対面で真希に詰められていた。その時のことを思い出してか、彼は大きく瞬きをする。

「い、いや違うよ。あれは僕が悪かったから。まだ、よく分からないことの方が多いし……正直、縋っていた部分があるのは、本当だよ。ここに来ればなんとかなると思ってた」

 彼の言葉に、呪術高専に来た時の自分を思い出す。
 その身に纏う呪いの影響もあるとは思うが、彼もまた私には想像のつかない人生を歩んできたのだろう。

「でも、真希さんに、叱咤されて僕の目標が決まったから……。感謝してるんだ」
「乙骨くん……」
「あの……みょうじさんは、どうして呪術師に──」

 ぼとり、と重たい水音。私と乙骨君の間を縫うようにして、空間が滲んだ。そして現れるのは、もはや親の顔より見た姿。

「(……! 禍蛇、いつの間に、どうして)」

 前回の出現から、あまりにも間隔が近すぎる。里香ちゃんの呪力に反応したのか? と呪具を取り出そうとした瞬間。

「な、何これ」

 乙骨君の声がして、手を止める。彼は確かに私の傍らにいた「禍蛇」を見ていた。「禍蛇」はただ、静かに揺れている。

 その、瞬間。眼前に初めて見る光景が浮かぶ。そしてそれは写真のように鮮明に私の脳裏に焼きついた──。

 私と似た顔をした少女が、そこで笑っている。その隣には彼や、真希やパンダ、狗巻君がいる。あの子は一体誰だろう?

「みょうじ……さん?」

 目の前の彼が心配そうに私に声をかけた。聞き飽きたはずの言葉なのに、その意味が分からなくて私は首をかしげる。そして気付く。
 そうだ。私は、大事なことを忘れている。

 誰か分からないのは、“私”だ。この身体になる前の“私”は一体誰だった?
 そして、一番恐ろしい事実──“私”が、この肉体に転生するまで、ここにいたはずの子は、今どこにいる?
 私は、大きな勘違いをしていた。

 その日、私はこの“長い人生”で──この目になって初めて、未来が見えた。
 夢や幻ではなく、確かにこの目で私はそれを見た。初めて、ただ綺麗な明日が見えた。それは希望にも似ている。

 その未来には禍蛇はいない。──そして“私”もいない。けれど見えたのだ。
 転生するのは、きっと“私”じゃない。
 

 乙骨憂太。彼との出会いが“私”の未来を変える。