フトシ君と塾長さんにお礼を言って、遊勝塾を出る。再度入塾を勧められたけれど、申し訳ないがそれはやんわりと断らせていただいた。言うタイミングを完全に逃したけど、私はLDSの生徒である。一応。

「ちょっと待って!」

 さて帰ろうと歩き出した私を呼び止めたのは、あの日と同じ情けない声であった。榊遊矢。榊遊勝の息子。先程手にしたばかりの情報を脳内で確認しながら、彼が来るのを待った。私の元まで走ってきたにも関わらず、彼の整ったままの髪と息に生命の神秘を感じつつ向き合う。唯一揺れるチョロ毛を鷲掴みにしたい衝動を必死で抑えながら、心の中で鎮まれ私の右腕と何度も唱えた。

「榊遊矢」
「……俺のデュエル見てただろ?」
「見てたよ、デュエル。凄かったね」

 我ながら、録音されたものをただ再生したような返事になってしまった事に驚く。もうちょっと気の利いた台詞は無いものだろうか。こういうのを小学生並感想というのだ。最近の小学生なめんな、もっとマシな受け答えできるわ。

「本当にそう思った?」
「え?」
「いや、なんか、前と同じ顔してたからさ……」
「……私の顔はいつでも同じだけど」
「そういうのじゃなくて」

 榊遊矢はしばらく黙っていたが、意を決したのか一度小さく頷き、「楽しそうじゃなかった」と一言零す。楽しそう。さて、あの一瞬の間に、彼はそれを見ていたとでもいうのだろうか。私としてはあのなんたら召喚に結構食いついてたが記憶あるのだが。それでも私の表情がお気に召さなかったというのならそれはもう生まれつきの生理的なものか、もしくは志島のプレアデス。苦い顔してたら多分プレアデスのせい。
 どういう訳か彼は「私が楽しそうでなかったこと」が本当にショックだったらしい。それ以降口を開く気配がなく、せっかくの晴天だというのに、私たちの周りだけどんよりと空気が重くなってしまった。

「……私、デュエル下手くそなんだよね。だから正直理解出来てなくて」
「……この間持ってたデッキは?」
「これは、兄のだから……私自身は全然」

 腰のデュエルケースを撫でながら答える。ケースは勿論新調済みである。私のデッキは見れたものじゃない。だって私自身よく分かっていないもの。
 そうして視線を下げていると、一度閉じた口を開く事がどんなに難しいことか、思い知らされることになる。首の後あたりにどしっとのしかかる空気、働かない頭。おやおや?榊のテンションがうつってしまったかな?どうしてくれるんだ。このまま帰ってもいいのだろうか?話しかけられた側としては、どうアクションを起こしていいか分かりかねる。
 そもそも彼の目的がわからない。赤馬零児もそうだが、そういう相手と探り探り話すのは誰だって苦手なんじゃないかな。

「そっか……そうだよな、ペンデュラムだけに頼っててもしょうがないよな……。デュエルが分からない人にも感動を……」
「榊?」

 突然ブツブツと喋り出した彼は、もう私の事を見てはいなかった。

「ようやく使いこなせるようになって、調子に乗ってたのかも……」

 ああでもないこうでもないと、一人で唸り続ける目の前の少年にドン引きしつつ、かつ一歩後退りしつつもそれでも帰らないこの優しさよ。そんな優しくないなこれ。
 榊くん?大丈夫?こっち見てる?そうやって手を振ったりチョロ毛を鷲掴みするも反応無し。……ダメだこれは完全に目が据わってる。自分の世界に入ってるのだろう。情緒不安定か。普通に今後が心配である。

「本当は、こういう事言うつもりじゃ……びっくりしたよな」

 今、私は確かに戸惑っている。けれど同時に、小さな感心が芽生えていた。
 そんなにデュエルが好きなんだ。思い通りにいかないとこんなに悩んだり落ち込んだりするのだ、彼は。好きなもののために全力をかける、彼はそういう人間なのだろう。眩しい、と素直に思った。
 もしかしてもしかすると、彼は元々悩んでいたのかもしれない。自分のデュエルに。そこに偶然現れた私が、気付かぬうちに追い打ちをかけてしまった可能性はないだろうか?

「こっちこそ、ごめん……」
「いや、あんたがどうこう以前に、俺のデュエルはまだまだなんだ。そう、やっぱり……父さんのに比べたら……」
「榊遊勝さん?」
「そう、俺の父さん。最高のエンタメデュエリスト……」
「……榊はお父さんみたいになりたいの?」

 純粋な疑問であった。ウジウジモードを強制終了させたいという気持ちが無かったと言えば嘘になるが、単純に、このまま彼に喋らせていたら、更に自分から落ち込んで行きそうだと思ったからである。

「ああ、父さんは俺の憧れだから」
「凄くはっきりと言い切ったね」

 彼の父親は、赤馬零児の憧れの存在でもあるという。それ程、榊遊勝という人間は大きな存在だったのであろう。私にとっての兄と同じように。
 しかし私は兄に憧れを抱いた事はない。それは男女の意識の違いなのだろうか?私がデュエリストとしての兄を殆ど知らないからだろうか。……いや違うわ、私が虫そんなに好きじゃないからだ。古代王者の方がまだいい。もしくは海賊王。ってなんで私までキングになる事前提になっているのか。え?遊……戯王?そこまで考えて頭が痛くなった。何だこれ。
 私が突如謎の頭痛に襲われていることなど彼が知るはずもなく、彼は続けて口を開いた。

「俺も絶対、父さんみたいになるんだ」
「……それって使命感?」

 それなら早々に捨ててしまった方がいいよ。そんな言葉がつい溢れそうになり、ぐっと堪えた。
 LDSに入った時の事を今でも覚えている。「お兄さんみたいになれるよう、頑張りなさい」。同じような事を耳がタコになる程言われてきた。最初は、兄が多くの人に認められているということが妹なりに誇らしく、その言葉が素直に嬉しかった。しかしそれがどうだ。どうやったってその枠にはまることは出来ない。私は兄ではない。あそこでは、私は未だ認められていないのだ。だから私は、少し前にそれを捨てた。

「……違う。使命感とかじゃないんだ」
「それじゃあ……?」
「そう、俺は父さんを超えるんだ」

 さっきまでの曇り顔は消え、真っ直ぐな瞳でこちらを見る彼に、少しだけ怯んだ。真っすぐなのは彼の意志。ブレやすいものではあるかもしれないけれど、芯はしっかりとしているらしい。そうか、これが目標、夢、なのか。そう気付いた途端、彼が更に輝いて見えて、また目が眩みそうになった。

「俺は俺……そうだよ、俺もまだまだだな!」

 そう……なの?私には榊が良しとする基準が分からないのでなんとも言えない。しかし彼の中で何かが解決したという事だけは分かった。

「今はまだ、父さんの模倣かもしれない。けどいつか必ず、俺のデュエルで皆を、なまえを楽しませるから」
「私?」
「ああ!」

 はじめて正面から、彼の笑顔を見た。花が咲くような笑顔という表現がぴったりなそれに、女として少し悔しくもあるが、数秒後にはそんな事どうでもよくなっていた。

「あれ、何で私の名前知って……?」

 しかし、その答えを知るはずの彼は既にいなかった。用が済んだからって帰るの早過ぎじゃないですかね……。
 私は、彼の走り去った方を、遊勝塾をしばらく眺めていた。
 遊勝塾はLDSには無いものがある。ほんの少しここにいただけの、デュエルも下手な私でもそれだけは分かった。エンタメデュエル、それこそがこの塾の掲げるスローガンにして、一番の魅力なのだろう。
けれど私にとってそれは必要無いものである。
 赤馬零児を見返すためには、ここの技術では足りない。LDSを見返すには、悔しいけれど、LDSの技術を得なければ不可能なのだ。榊の言っていたように、模倣でもいいんだ。不器用な私達はとても良く似ている。父の、兄の大きな影に埋れ、潰されそうになりながら、必死にもがく。自己の形を留めるために主張を重ねる。
その影の中で何をしたって、周りに見えはしないのだ。しかし彼はそれを超えようとしている。私にはその一歩が見つからない。似ているようで似ていない。
 私に残されているのは兄の足跡。途絶えたその先の事は分からないけれど、今はそれを頼りに進む以外道はないのだ。