「まったくお前は……由緒正しいLDSの生徒として恥ずかしくないのか」
「へへあ」

 教室に入ろうとドアを開けると、予想外の壁にぶつかった、物理的に。焦りから、仁王立ちしていた先生の存在に気付けなかったのだ。野球でもしていたのかというほどたくましい胸に鼻を打ち付け、小さく唸る。なんてかたい胸筋なんだ。ふらつきながら、一歩後ずさりする。そういえばこの人、チョーク投げるのが殺人級に上手いんだよね。おい、野球しろよ。

「遅刻なんて、最底辺の人間がすることだぞ」
「いやでも、ちょっとした事故があって……」
「言い訳無用。途中からテスト受けても他の生徒に迷惑なだけだから、今日は帰りなさい」
「そ、そんな」

 しかも今日テストだったのか、しまった。秒毎に募る後悔が私を潰そうとする。頑張って走ったのに、その努力も水の泡か。あの少年と犬を恨んではいないが、ここぞという場面での自分運の悪さに絶望した。

「まったく……お前の兄さんでも、遅刻だけは絶対にしなかったというのに」
「ごめん……なさい……」

 先生の目は、怒りでも呆れでもなく、ひどく冷たいもので、私はそっと目を逸らす。もう十分だった。


*


 空いてしまった時間、そのまま帰ればいいものを、それすらできない私はフロントの待合椅子に座って、ただぼうっと時計を眺めていた。
 ここに私の居場所はない。あるのは兄が座っていた、足もつかない高い椅子。踏ん反り返って座るのにも、もたれかかる事にも疲れた私はただ静かに項垂れた。ぶらりと垂らした足の下には地面などなく、ここを降りてしまえばもう落ちるだけ。本当に、居場所はなくなってしまう。そう分かっているからこそ、簡単に降りる事のできない弱さが更に私を責め立てるようで嫌になる。

「やめたい」

 他の生徒は、コースに限らずテストなのだろう。時折響くスタッフの足音以外は何も聞こえなかった。そのせいか、ぽろりと口から零れた言葉は、思いのほか大きく感じた。

「こんなところにいたのか」
「……あ?……赤馬社長!?」

 私に影を落としたその人は、このLDSの社長、赤馬零児さんであった。関わりはなくとも、この町の者なら知らない人はいないだろう。LDSに通っていれば、尚更のことである。
 まさか彼がこんなところにいると思わなかった私は、失礼にも三度見程してしまった。やばい本物だこれ。そう気付いた途端に、さぁっと血の気がひいていくような気がした。私はさっき何と言った?

「何をやめたいんだ」
「えええなんのことでしょ」
「そうやってすぐに逃げるのは、君の悪い癖だ」

 たいして関わりのない相手に言われると、それが例え正論であってもかちんとくるものである。他人に私の何がわかるというのか。面倒くさいヒロインが初期でよく言うセリフ十位には入るよこれ。
 完全に喧嘩モードに入った私は立ち上がり、彼と目を合わせる。いささか足りない高さに見上げる形になるそれは、可愛らしい上目遣いなどではない。ヤンキーのそれと思ってもらって構わない。なんでこんな子に育ったんだろうね?本当にな。

「……LDSをやめたいんです」
「ほう」
「元々入りたくて入った訳じゃないですし、才能もありませんし」

 兄とは違って、と、するすると繋がる軽い言葉達。軽い軽い、所詮私のやる気なんてこんなものである。この開き直り方が既に負けを認めているようで、空しい。

「…君は榊遊勝という人の事を知っているか?」
「すいません存じ上げないです。シャア・アズナブルなら知ってるんですけど…」
「君は本当に……」

 なんですかその、哀れむような目は。尊敬していますよとでも言えば良いのか?……え?もしかして赤馬さんクワトロ中尉?シャア・アズナブル?確かに彼の服装には赤がポイントとして使われていてとてもお洒落だし、名前に既に赤が入ってる点で意識した結果ともいえる……違う赤馬は苗字だった。馬鹿なのは私です。

「榊遊勝は、私が最も尊敬する人物だ」
「……デュエリスト?」
「そうだ。分かるか? 君には目的がないんだ」
「目的?」
「目標の方が分かりやすいか」

 眼鏡越しに見えるその瞳から、表情は読み取れない。目標、と再度復唱する私を見下ろして、静かに頷く彼は何を考えているのだろうか。
 目標。目指すべき場所。夢。夢はでっかくというわけですか。まだ小さい頃、兄がいた頃、兄に頼りきりの私は未来のことなど考えた事もなかった。兄の手に引かれるままに進めば何も恐れるものはないと、本気で思っていたのである。その手を見失ってしまった今の私には、お先真っ暗、とまでは行かなくても、目指すべきものなど曖昧なものでしかなかった。
 LDSに入ったのも親の意思であり私の意思ではなかった。親曰く、それはまた、兄の意思であり願いだという。子供の事をちゃんと考えているのかいないのか、しかし兄の事を出されたら断れないのも事実であった。
 デュエリストよりギガントシューターの方が良かったのかもしれない。多分、そっちの方が向いてる気がする決めた、デュエルやめたら私、ギガント極める。ファーストギガントは譲るぜ!

「兄のようになりたいと思った事は?」
「ムシキングになるくらいなら恐竜キングの方がいいですね……ぐえっ!! ……えっ?」

 ビンタされた。驚きのあまりその事実に気付くのに数秒かかってしまったが、後からじくじくと痛みを増す頬に思い知らされる。
 嘘だろまさか、イナゴに手を出すような人だったなんて……イナゴじゃねーよ!!オナゴだよ!!というハリセンボンもどきのノリツッコミを脳内でするくらいにはこの状況を飲み込めずにいた。わたしはこんらんしている!常にクールな赤馬社長すらイラつかせるこのKYスキルを活かせる道はないのだろうか。ないな。
 絶対零度の領域に達した視線に、こちらの頭も少しだが冷めた。というより、初めて彼の感情がちらりと覗けた気がして、少しだけ落ち着けたともいえる。一番怖いのは何時だって、「よく分からないもの」なのである。

「だから君は何時もそうやって……」
「え?あの……ごめんなさい……」
「……今、君を辞めさせる訳にはいかない」
「え?」

 彼は今なんと言ったのだろうか。

「君はまだ何も知らない。本気でデュエルをしたこともない」
「何時も本気ですよ、それでも、勝てないだけで」
「勝てないから、辞めるのか?」
「分かってるんじゃないですか?それ以前に私はこれ以上、兄の……」
「それは場所の問題なのか?だとすればなおさら、君はただの負け犬だな」

 その言葉に詰まってしまった自分に狼狽える。
 彼の望みが分からない以上、下手に動けない。彼に声をかけられたその時から、もう逃げ道などなくなっていたのかもしれない。そもそも、元から足場などなかったのだと、さっき気付いたばかりではないか。
 廊下の奥から、微かにざわめきが聞こえだす。テストが終わったのだろうか。一瞬、そちらに気を取られたその隙に、彼は何処に、本当に何処に隠してたのか分からないが、雑誌のようなものを私に突きつけた。

「違うというのなら、証明してみせろ。自分の意思を。それまで君はここの生徒であり続ける」

 社長権限、というものだろうか。彼はもっとクールだと思っていたのだが、私のような人間にもしつこく言い寄るくらいには、頑固な性格であるらしい。これ訴えて勝てる?渋々受け取ったそれに目を通す。パンフレットだ。そこまでは良かった。しかし一番最初に飛び込んできた文字に思わず、私は再度ひるんでしまった。
 そんな私に追い打ちをかけるように降ってくる彼の言葉を快く受け止められる程、余裕は無かった。

「舞網チャンピオンシップに出場するんだ」

 どこか懐かしいその響きに、私は顔をひきつらせた。それは流石に無理がありすぎる。