角を曲がれない人間

 「ぐええ」と、潰れたカエルのような声が聞こえて顔を上げた。今も昔も一度も聞いたことのないものに例えてどうするのか?そんな些細なこと、今は置いておこう。とにかくそれくらいに酷い声だったのだ。

「何してるんだいマスター」
「曲がり角で小指をぶつけた」
「なんとなく分かってたさ。けどそれ今週で何回目?」
「ばか……まだ1回目だわ。……一昨日のはタンスだから違う……」
「んん? それは何が違うのかな?」

 僕の問いに対して彼女が何か反論しているのだろう。必死に痛みを抑え込もうとしているのか、掠れた声が微かに下の方から聞こえた。しかしそれはあまりにもか細く、高低差如きの条件で聞こえなくなってしまう程だった。ふむ、と少しだけ鼻をならしてしゃがみ込む。これで彼女と条件は同じ。
体が近くなったことでマスターが震えていることに気付く。不謹慎にも笑いが漏れた。日頃の遠征で――情けない事に僕らがいるにも関わらず――切り傷も打撲も火傷も、いくつも経験しているはずなのに、そのどれよりも小指をぶつけたというしょうもない痛みが何よりも彼女には辛いらしい。

「もう少し気をつけて歩きなさいよ……常にどこかしらぶつかって怪我してるじゃない、あんた」

 後ろを歩いていたらしい聖女マルタが、踞る彼女に冷ややかな視線を送っている。美しい顔をしているからこそ、冷たさが際立っている。口笛を吹きたい気分だったが我慢した。

「先週のは左足……今週は右を重点的に……」
「そんなのどうでもいいから」

 マルタとはほぼ“最初から”の付き合いだが、初対面の時の慈愛に満ちた目と穏やかな音を発していた唇はどこへいったのだろうか。

「……一昨日の後遺症かなぁ、コントロール効かなくて」
「後遺症って……小指のコントロールが効かないって何よそれ。ただ注意力が足りないだけでしょ」
「そういうことなの……」
「……あーもう、何か冷やすもの持ってくるから、ここから動かないで」

 そう言ってマルタは小走りに廊下の向こうへと駆けていった。お得意の魔術を使えば一発なのに、何を焦るのか?と思いつつも口に出すことはしなかった。そんな僕も癒しの力は持っているんだけど。
 別に他意があった訳ではない、多分。ただもう少し、この曲がれない人間を観察したい気分だった。

 マスターを、マスターの生まれた国の言葉で表すならばそれは素直であり、安直であり直線的である。「直」という漢字がとにかくよく似合う子だ。とはいえ「曲がったことが大嫌い」「一度決めたことはやり通す」などという硬い芯を持っているようには見えず、触れたら形の変わってしまう液体のようであるとも思える。ただ、本人の意思とは無関係に、やはりふと気付くと真っすぐに突き進んでいる。彼女の行く道は2つもない。そしてそれはおそらく間違いでもない。迷いのない足取り、それは浅学故か、本能的なものなのか。無意識の猪突猛進人間。足は遅いはずなのに、振り回される分着いて行く方は必死である。それを疎ましげに思う者もいるが、全てと言う訳ではないだろう。彼女の短所は、短所でもあり長所なのだと皆は知っている。しかし彼女はなんにも知らない。皆がその“性質”に顔を顰めながらも、同時に心配しているということも。なんにも知らずに、こうして壁にぶつかっては一人で勝手に悶えているのである。
 ようするにマスターは馬鹿なのだ。

「マスターを見てて気付いたんだけどね、もうちょっと大回りできないものかな?」
「大回り?」
「うん。それからいつも走り回ってるけど、どうせたいして速さは変わらないんだから、ゆっくり行けばいと思うよ」
「普通に歩いてるつもりなんだけど……」

 依然小指を圧迫したままの両手。散らかったブーツ。本当に、周りが見えていないというかなんというか。

「あぁあと、内側内側を通るよね。だから角上手く曲がれないんだよ。なんで?」
「さぁ……? 最短距離だから?」
「そんなリレーでもあるまいし」

 予想外の答えについ吹き出した僕に対して、「それもそうか」と彼女は照れたように頭を掻いた。

「角曲がるのが下手くそな人間とかいるんだなぁ……まだ痛む?」
「めっちゃいたいよ! まだ一昨日のも完治してないのに、よりによって同じところなんだよ?! 骨折とかしてないかな……。どうしよう……小指が変形したら……やだな」
「いいじゃん。小指の1本や2本くらい形がおかしくたって。マスターのこれからの人生に支障ないでしょ?」
「なにぃ……こちとら嫁入り前の女の子だぞ」
「ははっ何だいそれ。小指までじっくり見せるような相手が……」

 おや、この想像はいけない。自分で言っておいて何だが、それは許されざるものであった。想像はしたが、そもそも僕は彼女の素足を一度も見たことがないのだ。

「見せて」
「何を?」
「小指を」

 正直、自分でも何を言ってるかよく分からない。

「ここでタイツを脱げとおっしゃる?」
「僕は別に小指が変でも気にしないよ。小指に恋してる訳じゃないからね」
「え?」
「え?」
「いや、ダビデが私を口説くのはじめてだなと思って」
「……んん? そうだっけ?」

 馬鹿で拙い頭のくせに、時たま超速理解を発揮するものだから、こちらのペースをつい崩されそうになる。しかもこれでやっとカウントダウン開始だなんて酷な話だ。
 無抵抗に放り出されたままの彼女の足に触れる。このノリで「本当は頭から足の小指まで好き」なんて言ったら、どうなるのだろうか?などと俗なことを考えた。

 聖女が戻ってくるまで、あと1分。