心は空へ落ちていく
「オビトが嫌い」
好きな漫画があった。それはもう小学生、中学生と子供の頃はドはまりしていた漫画だ。私だけでなくクラス中で流行っていて、皆でごっこ遊びをしたり、ゲームをしたり、漫画そのものとは別に素敵な思い出もたくさんくれたことに感謝している。だけど、それほどまでに好きだったからこそ、一番好きだったキャラクターが死んでしまったのがショックで、そこからぱたりと読むことを止めてしまった唯一の漫画でもある。
たくさんの漫画を読んできたけれど、今までそんなことはなかったから、「余程そのキャラクター好きだったんだろう」と、まるで他人事のようにただ思う。当時は現実に好きな人はいたし、本気でそのキャラクターに恋をしていた訳でもなかったはずだが、とにかく虚しかったのだ。失礼なことをいうと、その漫画を読む理由を無くしてしまったといってもいい。しかしおかしなことに、そんなに好きだったキャラが、今なっては誰だったのかすら覚えていない。それほどショックだったのか、ただ年を経る毎に蓄積されていく記憶に埋もれてしまったのか。後者だとしたらとても悲しいな、と思っていた。
最近になって、その漫画が完結してしまったことを知った。それを機に、昔を懐かしんで再び手に取ってみたのである。あの続きを見てみようかと、今ならきっと進めるだろうと。――それがいけなかったのか。
訳も分からないまま、気付いたらこの世界にいた。はじめて見た風景のはずなのに、はじめて踏んだ土地であるはずなのに、懐かしさを感じた。そして水たまりに映る、全く知らない顔をした少女。“彼女”には悪いが、その顔を見た時、酷く吐き気がしたのを覚えている。既視感と焦燥感が形をもって脳を殴ってきたような衝撃が私を襲い、そのまま崩れ落ちたあの日が遠く感じる。――そこは、否、ここはまさに、あの漫画の世界だった。なんという、それこそ漫画のような展開。向こう側にいた時は、子供の頃は何度こうなることを願ったことだろう。けれど、今の私は別にそれを望んでいた訳ではなかった。
一人途方に暮れていた私を助けてくれたのが、「うちはオビト」だった。数少ない漫画の記憶を辿っても、そう出番が多い方のキャラクターではなかったはずの彼が、私にとってはとてつもなく大きな存在になった瞬間であった。
希望がちらりと見えた。彼がいれば、なんとか生きていけるかもしれない、元の生活に戻れるかもしれないと、思った。その直後だった。それが、はじまりだったのだ。
――「うちはオビトを殺せ」。
そんな叫びのようであり、囁きのようでもある呪いの声は、今も私にへばりついて離れようとしない。耳の中に何か得体のしれないものが住み着いたような感覚。どうやら私をこの世界に連れて来た存在は、私に歴史を変えさせたいようである。確か、漫画のストーリー通りいけば、オビトは任務中に殉職してしまうはずだ。それなのに何故、わざわざ私が手を下さなければいけないのか。むしろ、その結末を知っている私が逆の行動に走りたいと思うのは必然ではないか。しかしその時はあの声に対する怒りや恐怖は思ったほど無く、あまりにあり得ない、想像出来ない出来事にただただ驚いていた。そんなこと、考えたこともなかった、と。当然である。自分が、自分が生きる世界の何かを変えられる可能性があるなんて、思わないじゃないか。
結果として、勿論「オビトを殺す」なんてことは出来るはずがなかった。だから、時折聞こえるその声を気のせいだと、ただの幻聴だと片端から無視して、私はオビトやリン、そしてあの物語において重要なキャラクターであった「あのはたけカカシ」と、思うがままにこの里で生きていた。そして願はくは、オビトを物語の通り死なせたくはない、そのためにはどうすればいいかと、あの声に逆らうことばかり考えていた。
しかしそんな気持ちも空しく、オビトは死んでしまった。班の違う私は、オビト達の動きを完全に把握することなど出来ない。今の私にとって未来と呼べた漫画の中で、どのタイミングで、どんなシーンで何が起きるのかおおまかには知っているはずだった。しかし、自分が当事者になってみると、実際に与えられる情報量は莫大で、その時を見極めることができなかったのだ。
――「うちはオビトを殺せ」。
なんて、私たちはこれから消えぬ悲しみを抱いて、そしてそれぞれが生を生きるのだ。
それなのに何故あの声は消えないままなんだ?
私は、現実から目を背けてばかりで、いつも聞こえてくるあの言葉の意味を理解しようとしていなかったのである。そう、あの時の私は何も知らなかった。途中で漫画を読むことを辞めてしまった私は、これから起きることを何も知らなかったのだ。
リンの死と、その血に濡れたカカシ、そして、その瞬間を見てしまった、死んでいたはずの――オビト。
悲痛すぎる世界。もう二度とこんな光景は見たくないと思った。それなのに。
気付くと、私はまたオビトに出会っている。アカデミーにいた頃のオビトに。自分の状況を理解するのに、そう時間はかからなかった。これもまた、今まで読んできた漫画や小説ではよくあることだったからだ。
生まれて、死んで、同じことを何度も繰り返している。違うのは、今までの記憶を全て受け継いでいる私だけだった。――所謂、タイムループというものだろう。
何度もオビトが死んだ。時にはリンが死ぬところまでも見た。そうして苦しむカカシの姿も、何度も見た。狂ってしまいそうだった。何故彼等が、そして関係なかったはずの私がこんな思いをしなければいけないのだろう。
何回やっても失敗ばかり。二回目からは、結果本来の歴史と何も変わらないままあの日を迎えたり、私が死んだり殺された時点でまた始めからリセットされる。もうこれ以上見たくないと、帰りたい、痛いと泣き叫んでも、途中下車は許されないらしい。そもそも、令和の時代で普通に生きてきた私がこの世界のルールに慣れること、人を傷つけることに慣れるまでに、多大な時間を要したのは仕方の無いことであると思う。体はこちらに来てしまっているのに、心はまだ変わりたくないからと、どうしたってその境界線を超えることができなかった。
そして、終にこの顔に慣れてしまったその瞬間に、私は刃物を手にしたのである。私の心に、そしてまだ綺麗だったこの手に、すっかり馴染んでしまったもの。
このクナイとともに、私は何度も何度も繰り返してきた。
*
「……なぁ、別に好かれたい訳じゃねーけどさ」
オビトは、眉間にぐっと皺を寄せたまま私の顔を覗き込む。睨まれている、という表現の方が近いかもしれないそれに怯まずに見つめ返すことが出来るのも、この顔のおかげかもしれないと思った。人と話すときにマスクをしていると一枚壁があるように話しやすくなるあの感覚に似ている。私の場合は、本当に違う「顔」を被っているから、尚更開き直って何でも出来るような気さえしていた。なんて、それが出来ていないからこうしてまた彼と睨み合っているのだから説得力は全くない。そういえば、若者の間で増加してるんだっけ、マスク族。
どうでもいいことを思い出しつつ、この状況をどう切り抜けるか考える余裕がある分、私も成長したかもしれない。過程が過程なだけにあまり嬉しくはないが。
「どうしたらオレ、お前に嫌われないようになるんだよ」
「そうする必要がなくなったら、かな」
「それって何時だよ、何時までこうして……」
私の心を読んでいるかのような言葉がぽろぽろとその口からこぼれてくる。うちはオビトはどこまでお人好しなんだろうか。自分を嫌っている人間に、自分が傷付くだけと知りながらそれでも関わりを持とうとする意味とは。
「……そろそろ我慢の限界なんだけど」
「知らないよ」
こっちもそうしないとやってられないんだよ。許せオビト、なんちゃって、はは。