月影が光を奪う前に

 クナイを握り締める手が、かたかたと震えている。乱れた間隔で繰り返す呼吸とともに上下する肩から、その感情がありありと感じとれた。見覚えのある、頼りのない薄い背中。細い路地。影となるその場所に身を隠しているつもりなのだろうが、中途半端な闇はむしろ違和感を生むことを知らないのだろう。ただただ、目の前のターゲットを見つめ続ける女が、俺には酷く滑稽に思えた。

 しばらくそうやって様子を窺っていたが、女がそこから一歩も動く気配はなかった。というよりは、踏み出せないのか。その様も見れたものではないが、何よりこんなに狭く、近い場所で監視している俺にすら気付かないとか、同じ忍としてどうなんだと、このせっかくの日に、別のベクトルの苛つきさえ感じはじめていた。

「――あのさ」

 痺れを切らして声をかけると、こっちがびっくりする程に彼女の肩が跳ねた。

 ゆっくりと、彼女がこちらに顔を向ける。確信はあったが、やはりその顔は見覚えのあるもので。ちらりと見下ろすと。その手に強く握られたクナイだけが変わらず鈍く光っていた。

「一応あれでもうちの班員なんだけど」

 かっと大きく見開かれた目が、俺を捉えてぶるりと揺れた。そのまま視線を、その向こうの大通りにいる――うちはオビトにずらす。相変わらず間抜けそうな面だな……と思うと同時に、彼女に気付かない時点であいつも忍としてどうなのかと呆れてしまう。

「で、何のつもり?」
「カ、カシ……」

 掠れた声と息を飲む音。はて、彼女はこんな声だっただろうか。緊張から上擦っているだけなのかどうかも分からない。少し考えると、そもそもなまえと話すのは、もしかするとこれが初めてかもしれないという結論にたどり着いた。

 なまえという人物を俺はたいして何も知らないし、興味すら、つい最近まで抱いたことはなかった。かろうじて知っていることといえば、リンと仲が良いということと、オビトが嫌いだということ。そして――“こんなこと”を日々繰り返しているということだけだ。

「クナイを投げるくらい……人を刺すことくらいは任務で何度もやってるでしょ」
「……」
「それを今更躊躇うなんて、正直よく下忍になれたよねとしか」
「う、るさい……カカシには関係ない」

 そう言って彼女は生意気にもこちらを睨んできた。

「人の話聞いてなかったの? あれでも一応俺の班員なんだって」

 鈍い音を立て、彼女の腕を壁に打ち付ける。突然の衝撃に反射的に緩んだ手のひらから、クナイがこぼれ落ちた。

「罰ゲームとか、そんな生温い遊びだとでもいうつもりか?」

 向こうでオビトの笑う声がする。影の向こう側、明るいその場所で何も知らずに笑っているのだ。

 なまえの足元にはクナイがある。さっきまで、ずっとその後ろ姿を狙っていたクナイが。オビトは知らない。そのクナイをてらてらと光らせる、毒の存在を。理由はともあれ、彼女はオビトを殺そうとしているし、そのこともオビトは何も知らない。

 目で見て分かる範囲で考えても、その量は異常である。明らかな殺意に溢れた道具。しかし、それを使う彼女は道具になりきることができなかった、とでも言ったところだろうか。そこまで準備しておきながら彼女がそれを振りかぶったことは一度もない。なんて、生温い。

 お前ら皆滑稽だ。

「悪いけど、これは没収。この件もちゃーんと報告させてもらうから」

 片手で彼女のクナイを拾い上げて見せつけるようにその瞳の前で揺らす。何を思ったか、最初は呆然と目で追っていた彼女が、ぴたりと、動きを止めた。掴んでいた右手がたらりと下がる。

「……はぁ、まぁそうなるよね……」
「随分と物分りがいいな」
「もうすぐ上忍になる君から、ただの下忍の私が逃げられるはずがないでしょ」
「ふーん」

 もとより逃すつもりなどなかったが、本人にその意思もないとはね。突然人が変わったように冷静さを取り戻した彼女を少しだけ、不気味に思った。

 なんとも、不可解なことばかりだ。

「……なんで、オビト?」

 彼女がオビトを嫌っているということは、――当のオビトはともかく――アカデミーの同期の中では今や周知の事実ではあった。とはいえこう何度も暗殺を試みる程に憎んでいた様子は、少ない彼女との記憶を探ってもなかったはずだ。そもそも、彼女がそこまでする理由がない。オビトに親を殺された訳でもあるまいし、そもそも彼女には物心ついた頃より親はいないと聞いている。

 そこで最初はうちはの血、写輪眼の力を狙った他里のスパイだったのかとも考えたが、彼女程度の人間がスパイであるはずがないと嫌でも分かった。今日もそうだ。心に躊躇いがあるものが、忍に、スパイになどなれるはずがない。

 それだけではない。うちは一族の落ちこぼれであるオビトは、未だに写輪眼を開眼していない。そのオビトを、開眼を待つこともなく殺そうと思うなんて――何か他の理由があるのだと思わずにらいられない。

「さぁね」
「さぁね……って、さっきからまるで他人事だな」
「私が知りたいくらいだよ」
「時間の無駄だな。……まぁいい、理由は追々聞くとして」

 さて、とりあえず場所を変えるかと彼女の手を引いて歩く。簡単に囲ってしまえるような、細い腕だった。側から見れば、デートにでも見えるのだろうかとそんなくだらないことを考えて、不覚にも笑ってしまう。

 最後にちらりと彼女が後方を気にしたのが分かった。見ずとも分かる、その先にはオビトがいるのだろう。その瞳にはやはり、憎しみや怒りといった歪んだ色が見えることはなかった。そう、なまえは何時だって、泣きそうな顔でオビトを見ていたのだ。

 やはり、不可解。

「変なこと聞くけど、俺のことは好き?」
「え……? いや……嫌いじゃ、ないけど、好きでもないかな」
「そう。俺もお前のこと好きじゃないよ。オビトだってそう」
「……ふ、班員なのに?」
「班員だとしても、俺もあんな奴、嫌いだよ」

 うるさいし、ウザいし、遅刻はするし、感情論ですぐに動くからこちらとしてはいい迷惑でしかない。何より考え方も喋り方も暑苦しくて、俺とは相性が悪いのだ。ガイと違うのは、向こうも俺のことが好きではないくせに、弱いくせに妙に突っかかってくること。大方リンが関わっているのだろうが、やはり俺にとっては全て迷惑でしかない。だから嫌い、なんだろう。

「でもさぁ、なまえの言うその『嫌い』って、」

 俺のそれとは、違うよね。

 結果として、問いかけに対する答えを聞くことはなかった。掴んだ手のひらがだんだんと冷たくなっていく様を、ただ感じていた。


 そういえば、なんで俺が上忍に昇格が決まったことをなまえが知っていたのだろうか。まだ、誰にも言っていないはずなのに。そのことに、なぜあの場で気付かなかったのだろう。