声をなくした世界で

 先日、なまえが何かに悩んでいるようだったから私は喜んで相談に乗ったものだ。

 それまで彼女のことは、同級生の中でも異様な程に大人しい子だなぁ、と思っていたのだ。特に好かれているわけでも嫌われているわけでもなく、ただ当たり前のようにそこにいるから、皆もただ受け入れている。そういう子。しかしふっと気を抜いた瞬間、「そもそもいなかったのでは?」と思うくらいに意識から消えてしまう時がある。彼女はあまり自己主張をしない。常に誰かの話に合わせて笑って、頷いて、波風立てずに立ち回るのがうまい。自分からは用もなく誰かと関わろうとしない。
 それは忍びにとっては誇るべきことなのかもしれないが、学校生活ではどうだろう。寂しくないのだろうかと、私はあえて彼女に関わるようにしていた。そして気づく、時折見え隠れする彼女自身の気遣いや優しさ。それらに助けられているのも確かで、私はいつか彼女に何かお返しがしたいとずっと思っていた。

 けれど本人曰く、あまり上手く人を頼れない性格のようで、声をかけた時に見せたあの顔は、かくれんぼで見つかった時の子供のように、少し照れも混じっていてなんだか可愛かったのを覚えている。


 まだ肌寒くて、薄い紫色の雲が覆う空の下、寄り添うように二人で木陰に座っていた。そうして、絞り出すように彼女の口から出てきた言葉は、「ある人に、伝えたいことがある」。その言葉に、私はとても興奮したのだ。

 まさか、その相手があのオビトで、「伝えたいこと」が私の予想の斜め上どころか真反対だなんて、その時は思いもしなかった。オビト本人から聞いたのだから嘘ではないのだろう。苦虫を潰したような顔で「あいつおかしいぜ」と零した彼に、私は思わず笑みが零れてしまった。とても悔しそうだったし、きっとオビトはなまえのことが好きなんだと思った。「がんばれ!」と声をかけたら感動したのかもっと泣きそうになっていた。相変わらず、オビトは泣き虫だ。

 そういえば、なまえも結構泣き虫だった。アカデミーに入りたての頃は特に顕著で、転んで怪我をしたり手裏剣で傷を作る度に、皆から離れたところで一人泣いていたものだ。それに気付いていたのは私と数人の友達、そしてオビトくらいのものだった。彼もまた、よくカカシと衝突しては一人で蹲ることが多かったから、他人事には思えなかったのだろう。

 どうしてわざわざオビトに対してわざわざ「嫌い」だなんて伝えたのか。あまりにも突拍子が無さすぎて、オビト本人から聞いても信じられなかった。けれど、同時に彼女は私にそれを伝えなかったことも事実だった。きっと、オビト本人から逢瀬の結末を聞いたことは彼女に言わない方が良いのだろうと、私は引いてしまった。そして、私はしばしそのことを忘れることにしたのだ。




*



「なまえってどんな人が好きなの?」

 私の問いかけに、なまえはきょとんと目を丸くした。


 たまたま本屋にいた彼女を捕まえて、いつかと同じ場所に来た。前よりは雲も薄くなり、空気も柔らかく、過ごしやすいと感じる。春が来るのだ。

 なまえはあまり自己主張をしないから、私や、同じ元アカデミーの同級生でも彼女自身のことを実はあまり知らなかったりする。だからこそ、このチャンスを逃してはいけないと思った。同じ里の忍とはいえ、アカデミーを卒業した今、任務や何やらでこれからもっと会う機会が減ってしまうのではないか。今こそが彼女をもっとよく知るチャンスだと思ったのだ。

 女の子同士が話すことといえば、やっぱり恋バナだよね、なんて安易なことを考えつつ……。前回は私の勘違いだったけれど、今日こそは彼女のことを知りたい。本当のことを。誰かと秘密を共有すると、その人ぐっと距離が縮まったような気がするものだ。言い方は悪いが、それが手っ取り早いと思った。とはいえ、秘密を共有するために彼女にそれを強要するわけではない。彼女がもし、話してくれれば嬉しいな、と、ただそんな気持ちだった。そしてあわよくばオビトの力になってあげたい、なんて。思っていたりもして。

「うううん、好きな人、ねぇ……」

 彼女は大げさに腕を組んで唸っていた。その時間が結構長く感じて、そこまで頭を捻らないと出てこない人って、そもそも好きな人って言うんだろうかと思ったけれど口は閉じておいた。


「そういえば、誰が好きだったんだっけなぁ」

 とんとん、と足で落ちている小枝を器用に叩きながら、彼女は私に、というよりは自分に問いただすようにそう呟いた。まるで他人事のような言葉に少し驚いてしまったのは、仕方ないことだろう。

「ふふ、それってどういう反応……? 好きな人がいた……? あ、言いたくないのなら無理には……」
「カカシじゃないからそこは安心していいよリン」
「カッ……!」

 突然出てきた自分の想い人の名前に、仄かに顔が熱くなるのを感じた。

 そういえば相談に乗った時に、ぽろっと私が自白してしまった……ような気がする。だってあの時は恋の相談だと思い込んでいたから。
 「見てたら分かるよ」と、私の顔がそんなに面白かったのか、なまえはくつくつと喉で笑っていた。理由はともあれ、「なまえが笑った!」と感動している私を他所に、彼女はそのまま言葉を続ける。

「こういうこと言うと、気持ち悪いと思われるかもしれないんだけど」

 何を言われても、そんなことないよ、と返すつもりだった。けれど……。

 「その人、死んじゃったんだよね」。何でもないことのようにさらさらと流れてきたその言葉は、内容の割にとても軽いもので、なのになんとも思っていないようなその表情が何よりショックだった。

「でも、どこで死んでしまったんだっけ……?」
「なっ……んで、好きな人のことでしょ……? 気持ち悪いなんて思わないよ! むしろ何でそんなに平気な顔して言えるの……」


 彼女の肩をがしりと掴んで揺らす。その肩の細さに――何より、やはりその「軽さ」に、この子の中身はどこにあるのかと、一抹の不安に駆られた。
 私の思う「好きな人」と彼女が思う「好きな人」は同じ言葉でも意味が違うのではないだろうか? いや、それ以前の、何かが確実に違う。

 私の突然の行動になまえも驚いたのか、大きく目を開いて固まっていた。

「だって、私が、もし好きな人が死んじゃったら……」

 どうなってしまうだろう。私が好きな人――カカシや、仲間であるオビト、家族、勿論なまえも含めて誰にもいなくなってほしくはない。だからこそ医療忍術を学んできたのだ。でももしそれでも、どうしようもなく、目の前で大切な人が死んでしまったら? 私は今の私のままでいられるだろうか。

 こんなこと、戦争中に考えること自体間違っているのかもしれない。それこそカカシならば、個人的な感情よりも任務を全うしろと怒るだろうし、オビトならば、そんなカカシに噛み付くだろう。どちらも間違いではないと私は思う。私だって頭で任務が一番だと理解はしていても、その時が来たら、どうなるのか、分からない。

「あっ……ごめん、気持ち悪いっていうのはその、なんていうか、最早世界が違うっていうか、本来手の届かない存在だったっていうか……死んじゃったのはね、物語の登場人物なの」
「も、物語の……?」
「うん……冗談のつもりが、言うタイミング逃して」

 ごめん、そういって申し訳なさそうに眉を下げた彼女に私はいつの間にか強く握り閉めていた手のひらを緩めた。

「な、なによそれぇ~……」

 呆れや怒りよりも、彼女のその言葉に安心してしまった自分がいた。彼女の笑顔に、その下がった眉に、いつもどおりの空気を取り戻したような気がして、私はほっとしたのだ。

 私も絵本や恋愛小説を読んで、所謂王子様的存在に憧れたこともあるから、彼女の言いたいことは分からないでもない。分からないでもないけれど。

「じゃあ……その登場人物はどんな人だったの。その人みたいな人がタイプってことだよね?」
「それが詳しいとこまでは覚えてないんだよね」

 目を伏せた彼女は、ずっと足で弄っていた木の枝を軽く蹴飛ばした。

「ええー……なぁにそれぇ。なまえだけ私の弱みを握ってるなんてずるいわ」
「弱みじゃないよ、……忍にとってはそうかもしれないけど」


 誰かを好きになることは、悪いことじゃないもの。そう呟いた時のなまえの横顔は、やっぱり泣きそうで、私は一生目に焼き付いて忘れられないかもしれない。