※本編より少し前の話。

 「おんぶ」。幾度目かの少女のその言葉に、母親はついに顔をしかめることとなる。彼女の両手は既に大きなビニール袋で塞がれていたが、そんなことはお構いなしであるらしい。すかさず「ダメだ」と拒否しても、「おんぶ」「疲れた」「だっこ」。何も聞いていなかったとでも言わんばかりに、当たり前のようにその言葉を繰り返す。買い物を済ませさぁ帰るぞという時に、よりによって、と彼女は大きくため息を吐いた。そんな母親の様子を気に留めることもなく、ゆらゆらと彼女のスカートを掴んで揺らす、その姿。普段は可愛くてたまらないのだが、今はただの小憎たらしい小悪魔にしか見えない。
 ぱたぱたと後からやってきた少年は、そんな妹の姿を見て即座に現状を理解した。そっとその柔らかな手のひらに自分のものを重ね、ふらふらとあやすように揺らす。されどそのぬくもりに満足したのは少年の方だけで、繋がれた先のその紅い頬は、不満、不満、と膨らんでいく。すぐに小さく癇癪を起こし出した少女はまた同じ言葉を繰り返した。

「おんぶ」
「お兄ちゃんは、そんなわがまま言わないいい子だったわよ」
「おんぶ」

 自分より頭ひとつ分小さい妹の、瞳がじわりと滲むのを兄は見逃さなかった。さっとつないだ手を解き、妹の前にしゃがみ込む。

「あなたおんぶしたことないでしょ」

 その姿を見て慌てた母親は荷物を地べたに置いて、兄が妹を落とさないよう至近距離で構えた。しかしその心配も杞憂であったようで、自分より小さい存在を――最初こそ危なっかしくふらふらとしていたが――ちゃんと背負うことが出来ていた。
 達成感、もあったのだろう。背中から聞こえた笑い声に、ぬくもりに、少年は確かな手応えと喜びを感じていた。
 そして少年はこの時、この子は自分が守らなくてはと、そう思った。少女もまた、ずっとこのぬくもりに触れていたいと、確かに思った。

 それからもしばらくは外出先での少女のおんぶコールは止まなかったし、その度に駆け寄る少年の足音も止まなかった。「ちゃんとなまえに自分の足で歩かせなくちゃダメ」だと母親はいつも言ったけれど、返事はしても行動は伴わない。お互いにわがままを貫き通していた。些細なこと、しかしその積み重ねが、兄の妹に対する、妹の兄に対する「甘え」をぶくぶくと太らせていったのは明白であった。そのことに、ぬるま湯に浸かっている本人達が気付くはずもなく――。

*

 赤馬零児がはじめて少女にあったのは、その何年か後。少女の兄が、彼の親が経営するLDSに正式に入塾した時であった。
 その日は珍しく、母である理事長が直々に、少女の兄を含む新しい生徒達、その後に保護者を連れて塾の中を案内していた。彼はそんな母の姿を今後のために目に焼き付けようと、さらに後から同行していたのである。母がそうであったように、彼もまた、きまぐれといえばきまぐれであった。
 同じ様に、団体より少し遅れて歩く少女がいた。その時、赤馬零児は12歳。なまえは10歳であった。
 誰かの妹だろう、という推測は聡明な彼にはすぐについた。生徒ではないし、さして興味はわかない、そう思っていた。しかし、何故だか少女から目を離すことができなかった。
 その足取りの危うさを、彼は不思議に思った。「なんて、歩くのが下手なんだろう」と。それはそのうち自分の足が絡まって転んでしまうのではないかという程で。彼は無意識のうちにそっと足取りを速めて、少女の隣へと移動したが、少女はそれに気付くようすもなかった。
 自分より僅かに背も高く、どこか興奮した様子で話す初々しい生徒達。その輪の中心で笑う少年。その背中を、自らのスカートを握りしめながら、恨めしそうに見ている少女。その姿を、紫の瞳がじっと見つめていた。

*

「なまえ」

 ふらふらと、漂うそれを眺めていたら、無意識にその名を呼んでいた。振り向いた少女は、彼を見て、聞き間違いではないのかと、きょろきょろと辺りを見回した。しかし、今廊下を歩いている者の中に、同じ名前の生徒はいないようである。彼女からしてみれば、特に関わりもなければ、たいした理由も無しにたまに話しかけてくるこの男が苦手でしょうがなかった。何より立場が天と地も違うのだ。彼女が不審に思うのも、無理はなかった。
 渋々立ち止まり、彼と向き合う。見上げる形で自分を見る、その視線に、赤馬は目を細めた。

「君は相変わらず、下手くそだな」
「な……! わ、分かってますよ、私が弱いのは」
「いやデュエルの話ではなく」

 彼の言葉に少女は怪訝そうに首を傾げた。

「あの……何か用ですか?」

 少女とその兄の間で何があったかなど、彼は知る由もない。ましてや、そのきっかけが、ほんの些細なものであるということも、しかしその「些細な」ことが、兄妹にとっては「大きな」ものであったということも知らなかった。
 もうその後ろ姿を笑えるような、そんな時期ではないということだけは、彼は分かっていた。追う背中を見失った少女の足取りは、あの頃よりも不安定だ。脆い、歩く度に崩れ落ちる床を歩いているようにすら見える。

「どうか、転ばないように」
「……え?」

 まだ手はとらない。もう少し、自分の足で歩かせなければ、と、彼は決意した。かといってその言葉に、感情は込められていなかった。それが義務であるというように、淡々と、理解した。だからこそその声色は、あたたかいものでなければ、決して冷たいものでもなかったのだ。
 それも相まって、彼の言葉の意図が全く分からなかったのだろう。少女は再度首を傾げつつ、戸惑いながらもとりあえず頷いた。

「はぁ……まぁ、気をつけます」

 そんな変な歩き方してたかな、と呟きながら立ち去っていく少女を、ただただ、紫の瞳が見送った。