Something That I Want

 おかしいと思ったのだ。よりによってこのタイミングで成績を著しく落とすことなどあってはいけないと、いつにも増して気合を入れ睡眠を削って試験対策を行なっていたのに。そしてその結果分の手応えもあったのに、座学で20位以内に入れなかったのは、初めてだったから。

「もう一回言ってくれる?」
「オンボロ寮を……担保にしてしまいました……」
「そう……。私の耳がおかしくなったのかもしれないから、一言一句濁さずに、はっきりとした発音で、もう一回言ってくれる?」
「お、オンボロ、寮を……」

「みょうじさん、残念ですがもう決まったことですから」

 背後からぬっと伸びてきた手が、慰めるように私の肩の上へ置かれる。指の位置が首に近くてゾワっとした。久しぶりに聞く声だが、それが誰のものであるかはすぐに察した。低くもよく通る声──そして出来ればあまり聞きたくない声であると。

「ジェイド・リーチ……肩に手を置くのやめてくれない? 色々と屈辱的だから」
「おやおや」
「じゃあ俺がもう片っぽに置いちゃう〜。アコヤガイちゃんちっさいから肘置きにいいねぇ」
「……」
「や、やばい……このままじゃ寮長が爆発する!!」
「逃げるんだゾ!!」
「いや逃がさない(です)けど」

 理由は違えど、双子とと言葉が重なった瞬間だった。





*





 『期末テストの対策ノートを渡す代わりに、自分の得意な能力をアズールに預ける。成績優秀者50以内に入れれば、能力は返還。入れなければ卒業まで彼の下僕になる』
 グリムをはじめとした多くの生徒が同様の契約をアズールと行い、その結果、全学年・全教科での平均点が90点を超える異様な事態になってしまった。更に、50位以内に入れなかった多くの者たちは、能力を奪われたまま、契約通りアズールの手駒になってしまったのだとか。
 確かにアズールは同学年の中でもリドルと並んで首位争いをするほどの人物だ。そんな彼の作る対策ノートには相応の価値があるのは理解している。実際、私も一年の頃に苦手科目を克服するために彼と契約したことがあった。その時は今回のように大した要求はされなかったのだが、どうやら今回は彼の大きな計画にグリム達がまんまと釣られた結果だろう。
 その肩代わりとしてユウが勝手にアズールと契約した。彼はそもそも魔法が使えないため、その代わりの対価として、このオンボロ寮を指定されたのだそうだ。耐えきれずため息が出る。
 今回ユウに悪意は無いのは理解しているが、ハーツラビュル、サバナクローに次いで、他寮と問題を起こすなんて。

「ねぇ〜、っていうかさぁ。ずぅっと気になってたんだけど、アコヤガイちゃん、何か声違うくない?」
「……アズールから何も聞いてないの?」
「んー……喋り方もなんか変だし」
「そういえばそうですね」

 ウツボ二人に見下ろされる私を、ユウが顔を蒼白させながらも様子を探るように見ている。変なところで気を遣うくらいの思いやりがあるのなら、何かやらかす前に報連相して欲しい。いや、今回はグリムの独断でユウも知らされてなかったんだったか。……アズールも、報連相というか説明が面倒だったんだろうな。私が面倒な状況なのは自身が一番理解している。
 「何々、アズールなら知ってんの?」と上からねちっこい視線が絡み付いてくるが、どうせいつかはバレるのだ。なら今じゃなくて良いでしょ……面倒に変わりないのなら未来の自分とアズールに託そう、と投げ出す方向にシフトした。シンプルに今これ以上の疲労を増やしたくはない。そう考えた私はフロイドをスルーしてジェイドに向き直る。


「ジェイド・リーチ、アズールと連絡とれる?」
「今ですか?」
「あ、アコヤガイちゃんひっど。いつも俺を無視するよね。絞めていい?」
「(関わると面倒なのが分かってるからよ……) ……そう、今」
「……僕のスマホで良ければ。少々お待ちください」
「あ、絞めよ〜」

 不穏な言葉を聞き終わる前にしゃがんで手を振り払い距離を取った。ルーク先輩のおかげで以前よりも危険察知能力が高くなったことには心から感謝している。体術も剣術も、付き合ってくれるのは彼だけだ。有難いが、一切手を抜くことがない姿勢に何度命の危険を感じたことか。
 するとフロイドは一度だけ瞬きをしてから、元から垂れ目がちな目を更にとろけさせるように笑ってみせた。予想外に、機嫌は損ねなかったようである。いや、むしろその方がまずいのか? 彼の思考をまともに読めた試しがない。
 この状況。距離を取ったとはいえ、そもそもの足の長さからして違うから彼が本気を出さずとも一歩で詰められてしまうだろう。

「今の動きすごいねぇ……。マジフトの時も思ったけど、アコヤガイちゃん前より少しは喧嘩強くなったんじゃない? 魔法はダメダメだけどさぁ」
「……一言余計」

 この双子とできるだけ関わり合いになりたくないのには理由がある。以前、双子の喧嘩に巻き込まれたことがあるのだ。まだ入学したての頃の話。けれど忘れられない。あれは喧嘩というよりも災害。私だけでなくその時食堂にいた幾人もの生徒が巻き込まれた。アズールはうまいこと事前に察知して止めるでもなく優雅に離れた席で食事を続けていたのを覚えている。伊達に付き合いは長くないという訳だ。あの時は私の昼食もノートも全てひっくり返されて怒りの余りつい手を出してしまったのだけど、あれは人生で後悔した判断の一つになっている。

 フロイドから目を逸らさないようにしているこの姿は、まるで猛獣を前にした時の対応そのもので──なんとおかしな光景だろう。ユウが「ひえ〜」なんて声をあげながらジェイドに隠れるようにしてこちらの様子を伺っている。お前が盾にしているその男も結構もの凄い爆弾抱えているぞ。
 最悪、私かユウを犠牲にしてでもオンボロ寮から出ていってもらうしかないか、と胸元のマジカルペンに手を伸ばした時だった。「繋がりました」と、ジェイドが私とフロイドの間に割って入ってきた。
 彼のスマホを手に取り、一息ついてから耳に当てる。

「アズール。寮長の許可も無しによくもまぁ勝手に話を進めてくれたね」
『……誰かと思えば貴方でしたか。そういえば寮長でしたね』
「初手で喧嘩を売るのが得意なの? 買っていいなら買うけど?」
『いえ、忘れていた訳では。……ですがこれはそちらの寮生とそのご友人達の問題です。詳細は聞いてますよね? 僕はルールを破られた側ですから』
「……そう、それはその通り。もうほんっとうにその通り……! けど、グリム達はともかく私は関係ないでしょ。絶対に出ていかないから」
『ほぅ、それはそれは……』

 スマホ越しでも伝わる、態とらしい声色に気が滅入る。寮長ってどうしてこうも面倒な人間が多いんだ? 自分のことは棚に置いて、彼等と関わるとヤケクソになることが多い事実に目を背けたくなる。

「こういう事で使いたくは無いんだけど……私の秘密知ってるでしょ?」
『……』
「それも忘れてた?」
『男と思ってた期間の方が長いんですからしょうがないでしょう。……と言うのは冗談ですが。それに、貴女の事だから野宿くらいできるのでは?』

 彼の言葉に暫し詰まる。実際、野宿くらい父等の訓練に無理に付いていってたこともあるのでやろうと思えばできる。できない、と答えることの方が癪なので、余裕で出来るわと主張したいところだが……。いや待て。せっかく自分の場所を得たのに、こんな事でのこのこと出ていくなんて間抜け過ぎない?


『……アズール。貴方、女性との付き合い下手でしょう。モテないわよ』

 知らんけど。苦し紛れに呟いた嫌味。しかし、あちらは何か身に覚えでもあったのか、今度は暫し電話の向こう側から音が消えた。自分で言っておいてなんだけど、そこは気を強く持てよ。


『……分かりました。みょうじさんに関しては今日はそちらでお過ごしいただいて構いません。……おっと、監督生さん等にはオンボロ寮を出ていってもらいますがね』
「……」
『また明日、今後について話し合いましょう。……直接。オクタヴィネル寮でお待ちしております』

 ぷつりと切れたそれをしばらく眺めてからジェイドに返す。彼は通話の内容に興味津々といった様子でスマホを受け取った格好のままにこやかにこちらを見つめている。いくら待っても望んだものは出てこないぞ。暗に「アズールに聞け」と適当に作った笑顔で念を送り返した。






*






 嫌ですよ。それが開口一番に彼から告げられた言葉だった。


「見えますか? これは歴とした契約書です。監督生さんの名前がしっかりと刻まれているでしょう」

 昨日も電話越しでこの胡散臭い笑顔を浮かべていたんだろうな、なんてことを考えながら眼前に押し付けてくる紙を粉々にしてやりたい気持ちを必死に押さえつけた。

 モストロラウンジのVIPルームに入るのも、そもそもこんな部屋があることを知ったのも今日が初めてだった。部屋の四方の壁にはぎっしりと各国の魔法書や歴史書等の分厚い本が並んでいる。オンボロ寮はともかく、どこの寮にもその寮が代々所有する書物や魔法具があったりすると聞くが──例えば、魔法薬学や呪術に秀でた生徒の多いポムフィオーレでは、その方面の書物を多く所有している──オクタヴィネルの場合はそういったものをこの部屋に集めているのだろうか。

「それに、みょうじさんもまた、僕に差し出せるものなんて無い」
「随分とひどいことを言う」

 寒色で統一された室内に、艶のある皮のソファー。中央に座る男もまた冷たい印象を湛える。そしてその後方に聳え立つ2柱もまた、種類の違う笑みを浮かべているがその心の内は知れている。恭しく差し出されたコーヒーだけが、この部屋で唯一あたたかみを感じるものだとすら思えた。
 確かに、私が持っているもので彼が満足するようなものは何一つないだろう。脳裏に一輪の花がちらつくが、どんな理由があろうとあれを人の手に渡すつもりは毛頭ない。

「同じじゃないですか。だから監督生さんにも、オンボロ寮を提示いただいたんですよ?」
「オンボロ寮の管理者はあいつじゃなく私だけどね」
「学園長も知っていることですから」
「……あの人も私を貫通してすぐにユウに押し付けるの止めてほしい」
「それは彼に言ってください」


 彼の言う事は正しい。実際に今日こうして対面で話をして改めて思い知らされるが、契約に至るまでとその内容からして、悔しいが彼の言い分に旗が上がる。やり方には問題があるかもしれないが、冷静になるほどこちらに残された選択肢は無い。そして、彼が情で動くような相手でないことと、これ以上駄々を捏ねたところで彼が心変わりすることはないことを確信した。
 そうなれば、もうやる事は決まっている。時間の無駄だったな、と内心落胆しつつ、紅茶くらいは飲み干して帰ろうとカップを手に取った。水面に映る自分の顔がひどく疲れ切っているのには見て見ぬふりして。

「……同じ2年で寮長してる貴方に聞きたいんだけど……私ってそんなに頼りない?」
「みょうじさん、もしかして貴方……自分が学園の問題児枠なこと自覚してらっしゃらない?」
「インテリヤクザに言われたくない台詞。……けど立ち回りの巧さは尊敬に値するものがあるのは確かか……」
「僕は実力でこの座を奪い取りましたから。先輩方の弱みも全員分握ってますので、ええ」
「おっそろしい男」

 しかし、実質彼が寮長会議を回しているようなところも何度も見てきている。個人的にはいけ好かない人物ではあるけれど、リーダーとしての素質で言えば天才の部類なんだろう。あと、経営者としても。
 私たちが喋っている間も、彫像の如く真っ直ぐ立ち続ける双子は口を挟むような素振りを見せることは無かった。ここの関係性も奇妙なものだ。あのリーチ兄弟を、たとえ形だけだとしても従えてみせる。一体彼らの間ではどのような契約が成されているのか、なんて興味を持ってしまう程度には異様だった。

「……前に私に対策ノートをくれた時は、対価はもっと安かったと思うけど」
「自分でも勿体なかったと思ってますよ。あの時はまだこの取引がより商売になることに気付いていなかった。いやぁ、でもお陰様でこうしてラウンジ経営も出来るまでになりました」
「あー……そういうこと」
「安心してください。僕は済んだ契約に関しては後から口を出すような無粋な真似はしません」

 と、そこで再び彼は私の眼前に一枚の書類をちらつかせた。

「──しかしもう動き始めた契約は別です。なに、可愛い後輩のために、そしてこの僕のために依頼を達成して来てくだされば良い話ですから」

 『三日後の日没迄に、珊瑚の海にある博物館から、10年前のリエーレ王子の来館写真を取って来る事』。それが、ユウ達に課された契約解除のための条件だった。

「……そうまでしてその写真が必要なんだ。リエーレ王子のファンなの?」
「それは貴女には関係ない事です」
「……ふーん」
「僕としては貴女には何もしないでいただいても問題はございません。……あぁ、そうだ! オンボロ寮を提供いただく際には、代わりの部屋をオクタヴィネル寮で用意するというのはどうでしょう! 家賃は1日1万マドルから。モストロラウンジで稼いでいただくことも可能です」
「……それ、サバナクローに寝泊まりするのと変わらないでしょ」
「……昨日考えたんですけど、そもそもユウさんと同じ寮で過ごしていたんですから今更じゃありません?」
「そういう男だよお前は……」


 どこまでも自分の欲望と利益に正直で逆に信頼できるというか、期待を裏切らないと言うか。
 だとしてもサバナクローの方がマシだ、と呟いた私を「正気か?」と言う目で見てくる。正気度ならもうとっくの昔に無くなってるけど。

「僕としては──むしろユウさんを特別扱いする理由が見当たりません」
「別に特別扱いしてない。迷惑は被っているけど……今回のことも学園長に頼まれて対応した結果だし。学園長にも問題がある。一番問題なのは貴方とそれに釣られたグリムだけどね……」
「いやそうではなくて性別の話」
「あぁ……それはもう……」

 下着見られた時からもう吹っ切れているというか。元々、フェルトの身の回りの世話もしていたし、男親だし、なんなら変身薬で自ら男の身体になっていたくらいだ。

「男の身体くらい見慣れてる……」
「ゴフッ」
「あっ、違う! 語弊がある! 自分のでって意味で」
「そ、それはそれでどうなんだ……」

 机に軽く飛び散った紅茶を拭き取りながら彼はズレた眼鏡をなおした。その指には動揺が見て取れる。誰も幸せにならないからもうこの話はやめよう。

「……みょうじさんが意外と面倒見が良い方だとは思いませんでした」
「最近それよく言われるけど、改めて考えると失礼じゃない?」
「貴女は自分のために動く人かと」
「それはそう。NRCの人間なんて殆どがそうでしょ。──でも」

 オンボロ寮の食費だどうだこうだ言われてしまって、と半泣きでユウに抱きつかれた時から、正直怒りは半分くらい消えて代わりに呆れが滞在しているのみだ。あのカラスとは今度改めてしっかり話す必要があるけれど(私の知る限りで食費に関して彼が提示して来たことなど一度もない)。
 思い出すのは、昨日のユウとの会話。

『ユウ……私はただ怒ってる訳じゃない。いや、グリムには少し怒ってるけど』
『……はい』
『うう……こんなことになるなんて思ってなかったんだゾ』
『起きたことは仕方ないけど、アズールに会いに行く前にせめて一言でも相談してくれれば良かった』
『……言い訳にしか、聞こえないと思うんですけど……先輩にこれ以上迷惑かけたくないと思って……それでジャックについて来てもらって……』
『……』
『グリムも充分俺が叱ったんでもう責めてやらないでほしい……です……』

『……貴方はいつも人のために動くのね』
『え?』

 彼らは結局あの後、律儀にオンボロ寮を出ていった。多少心配はしていたのだが、結果的にサバナクローに泊めてもらったらしい。存外、いい友人を持っている。

「……悪い奴ではないんだよ」

 そう、どこまでも真っ直ぐなところが、あの子とよく似ている。

「……彼は私にとって今のところ無害だからいいんだ」
「そう見えるならもう手遅れですね」
「そう、かも知れない」





*






「アコヤガイちゃん女の子だったなんて聞いてないんだけど!!」
「言ってないから」
「聞いてないんだけど!!」
「僕も聞いてませんでした」
「アズールだけ知ってたなんてずるい!!」
「そうです、ずるいです」
「ずるくない。それに僕も知りたくて知った訳じゃない」
「私も知られたくなかったわ……というか揺らさないでフロイド。吐きそう」
「騙してたんだから女の子くらい紹介してよ!」
「接続詞の使い方が意味不明」
「僕、前にみょうじさん殴ってしまった気がするんですけど、気のせいですよね」
「気のせいじゃないけど」
「それは……陸の女性はお強いんですね」
「謝る気は一切ないんだ……。昔の話だからいいけど」
「貴女も貴女でいいんですかそれで」