「俺は藤丸立香。よろしく」
快活な笑顔が印象的な少年だった。アジア人特有の、彫りが浅く幼さを感じる顔立ち。癖がありながらも、艶のある黒い髪。澄んだ空のような色をした瞳が数度瞬いて、そこに間抜けな顔をした自分を見る。
差し出された手のひらは私のものよりも少しばかり大きく、骨ばってごつごつとしていたが、皮膚はほんのりと赤みを帯びていて、きっと私と同じ年の頃なのだろうということが窺えた。しかしよく見ると其処彼処に小さな傷があり、僅かに歪な輪郭の指がこちらに伸びている。自分の手も綺麗な方ではないが、彼のそれも生まれつきのものであるとは到底思えない。何かしらのスポーツによるものだろうかと、その時は深く考えることはなかったのだ。
今はただあの日の自分が憎らしい。
私は本当に、どこまでもどこまでも真っ白で、無知で、愚かな“子供”であったことを知る。
*
レイシフト中に傷を負ったリツカが青白い顔で帰還した。腹部にあるのは、私が今まで見たこともないような大きな傷。それは私と同じ白い礼装を赤黒く染めあげて、今もなおじわりじわりとその範囲を広げている。あまりにもショッキング過ぎる光景に、すぐさま背を向けてしまったが、その事を責める人間はいなかった。
ほんの少しの隙と彼の性格を読み切れなかったことによる事故。いや、本来普通ではないはずの危機的状況に順応し始め、いずれはこうなる恐れがあることを忘れかけてしまっていた者達の判断ミスが起こした、事故。かもしれなかった。
サーヴァントの腕から降ろされ、そのままストレッチャーに乗せられる彼を見て、私は足が石になってしまったかのようにその場から動くことができなかった。癒しの力を持つ聖女がその間も彼の治癒を続け、私よりも遥かに幼い姿をした女の子のサーヴァントが必死にリツカに声をかけている。私と共に彼の帰還を待っていた数人のスタッフは、各所にいる仲間に連絡を取り続けて、慌ただしく動き続けている。しかし、私は動くことができない。
普通に生きてきて、血溜まりが出来るほどの怪我・出血を見ることになる確率は如何程のものなのだろうか。分かったところで何の意味も為さない数字を頭の中でただ求め続けていた。青白い少年の顔が、いつしか自分のそれに見えるようになるまで。
私が彼の病室を訪れたのはそれから四日経った後だった。
初日は当然Dr.ロマンを始めとした医療スタッフしか入室の許可はおりず、マシュや数人のサーヴァントと共に食堂で何をする訳でもなく時間を費やした。幸いにも命に別状は無いという報告に、その場にいた誰もがほっと胸を撫で下ろした。その翌々日からは、サーヴァントやスタッフが代わる代わる彼の病室へと足を運ぶ様子を目にしたが、間違いなく、一番に駆け出したのはマシュであった。彼女が廊下を走るのは、緊急の時だけだ。それに対して、私はまたも動けず、一歩踏み出すのに更に1日、時間を要してしまったのだ。
「……リツカ」
カルデア内部の施設は白を基調とした無機質なデザインをしている。それはこの部屋も同じのようだった。それだけではない。白い電動ベットに、白いシーツと布団。白い包帯……。白に染まった部屋の中で目立つ物があるとすれば、見舞客が置いていったのであろう品々と、彼の艶のある黒い髪。
何重もある厚いガラスの向こうにもまた、白い世界が広がっている。壁を見ていても然程気分は変わらないのではないかと思うほど、今日は一際豪雪だ。リツカは上半身だけをベッドごと起こし、その吹雪の向こうを見つめていた。
「……なまえか」
「怪我の調子はどう? ……ごめん。痛いに決まってるか……」
「ううん、こんなの擦り傷だって」
あと数日で動けるんじゃないかなぁ、と、何でもないように彼は続ける。
あれが、擦り傷? 私は一瞬、それが本当に彼の口から出た言葉なのか疑ってしまった。しかしそれを確かめる術はなかった。声でしか判別することは出来ないのだ。何故なら彼は、依然として私に背を向けたままで。私は黒く渦巻く旋毛をただ眺めることしかできない。
捻挫や骨折ならまだ日常生活で起こりうるかもしれない。しかし裂傷や切り傷なんてものは、経験としてはそれらより極めて少ないはずだ。通常であれば起こりうるはずがない。ペーパーで手を切る、なんてものは勿論除外するとして。
「別にはじめての事じゃないんだ。あーでも……なまえが起きてからはこれが初めてか」
大抵の場合は、絆創膏で済むんだけどね。と予想よりも少しカラッとした声でリツカが続ける。
思い起こせば、彼はよく顔や腕、あらゆる部位に絆創膏を貼っていた。あまりに、あまりにそれが普通になり過ぎて、その事を言及する人はいなかったのだ。もしくは、気付いた上で見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。
私は、自分の情けなさに羞恥し次第に顔が熱くなるのを実感していた。
「幸いにも、後遺症も無さそうだって。これもドクター達のおかげ。すごいよなぁお医者さんって。俺は絶対、医者は無理だわ」
彼の言葉に、ふ、と自らの足元へと視線を落とす。彼の言葉に他意が無いことは承知の上だが、私の片脚はカルデア襲撃の際に負った怪我によって若干の後遺症がある。
だから……だから何だ? 私は今、どうして少し“安心”した? 後遺症がなくて良かったと、そう思う心はどこに重点を置いたものなのか? 例え後遺症が無くたって、傷は残るのに――。
いや、違うんじゃないか? 怪我をしたって、後遺症があったってなくたって、『藤丸立香』は進み続けるしかなかったのではないだろうか?
彼の方が私より才能があったからではない。彼の方が精神的に強かったからでもない。彼があの場で手遅れになるような怪我を負わなかったからでもない。(もちろん、マシュを始めとして、彼の性格があってこそ、藤丸立香だったからこそ結べた縁は数知れぬだろうが、それは後から付いてきた結果に過ぎない。)カルデア襲撃の際、あの時点で彼だけが残ってしまったから、“どちらにも”選択余地がなかったから、藤丸立香は前に進むしかなかった。
そもそも彼と私ではスタート地点から違う。彼には最初から止まることすら許されてなかったのだ。
頭をガツンと石で殴られたような衝撃。皮肉にも、そんな痛みすら私は味わったことないため、あくまでも想像の域で留まってしまうのだが。
いつも無意識のうちにもたれかかっていたその背中が今はとても小さく見える。掛け布団の上に投げ出された手は、きらきらと雨上がりの空のように輝いていた瞳は、こちらに向くことはない。
目を覚ました時「どうして私がこんな目に」、とそればかりを考えていた。どうして、どうして。私と同じ魔術師でないリツカも、同じ事を思っているかもしれないという可能性に気付く事が出来なかったのか。
「……わた、私、リツカの瞳にどう映って見えてた?」
「……は?」
体が震えるのは悲しみからではなく、過去の自分が犯したいくつもの過ちに気付いたからだ。私がもし彼の立場だったら? 視界が震えるのは体と首がくっ付いているから、連動して震えているだけのことだ。寒い訳でも、涙を流すための動作ではない。今、この瞬間、この場所で泣いていいのは私でなくて彼なのだ。
しかし、思い返せば私はいつだって彼の笑顔とくだらないジョークに支えられてばかりで、涙を流すところは一度だって見たことがない。
「教えて、私にはリツカの痛みが分からないの」
「……何を馬鹿なこと考えてるのか知らないけど、なまえは何にも悪くないんだよ」
依然として背を向けたままの彼の肩を掴む。
「なら、こっち向いて」
「……ごめん、それは出来ない」
「……それって、私が許せないから?」
もうここまで来ると後戻りは出来ないことは重々承知の上だった。
瞬間、リツカは私の手を振りほどいて、ぐん!とこちらに顔を向けた。
「っ違うって言ってるだろ!!」
それは初めてみる彼の表情だった。怒りと憎しみと諦観と、悲しみと後悔。全てが混ざりいつも以上のパワーを持った視線が私を突き刺す。
「じゃあ言うけど、痛いよ!! 本当は、物凄く痛いよ!! ずっとお腹が燃え続けているみたいだ……。こんな思い、一度だってしたことなかったのに……!」
「リツカ」
「でもそれで諦めたり、ましてやなまえを羨むだなんてしちゃいけないんだ! 人類最後のマスターは俺で、俺がっ……!」
彼の悲痛な叫びが部屋中に響いた。
「俺がやらないといけないんだって、分かってるんだよ……だから早く傷を治さないといけないんだ…」
「それは違う」
「違わないさ。……サーヴァント達がどんなに強くて、俺を守ってくれてても、俺が怪我しちゃ、駄目じゃないか……」
「……ぁあ」
私は何をしているんだ? 私に与えられた役割は何だった? スタッフの補助? それとも食堂の手伝い? 噛み締めた唇から、じわりと血の味が広がる。
『マスター』。それが自ら望んだものでないとしても、私が選ばれたのには何か意味があったはずだ。それが、もしもこれだとしたら。
「馬鹿だなぁ、俺」
顔に両手を当てて、リツカはかぶりを振った。私の今の気持ちを代弁したような言葉に唇が震えた。
「ごめん、本当にごめん、なまえ……。なまえに当たるなんて最低だって、それも分かってるんだけどさ……」
「……リツカだって何も悪くない。それが当然の反応だよ。それに気付けなかった私の問題。それに……怪我人なのに興奮させて、ごめん」
今更、彼を労わることを覚えてさ、情けないったら。足元を見下ろし、自嘲的に笑う。
いつだって、今だって私は自分のことしか考えていなかったのに、この期に及んでリツカはまだ私のことを思ってくれている。今回の怪我だって、戦闘中に市民を庇ったために負ったものであると聞いた。正直、異『様』ですらある。それが彼の性格であると言われたら、何も言えないのだが。同じ状況に私が置かれたとして、彼と同じことが出来るとは思えないのだ。
「……いいや。正直……少しだけスッキリした、かもしれない。分からないけど、そんな気がする」
ぎこちなく、彼は笑った。
いつかのアーラシュの言葉が再び胸に降りてくる。
痛い思いをしたくない。
血を流したくもない。出来る限り怪我をせず、健康に、それなりにが一番に決まってる。
生きたい。生きたい。せっかくパパとママが拾ってくれた命。
だから「こんな所で死にたくはない」。
――ああ、けれど、私は。
「誰かを踏み台にして、隠れ蓑にしてまで、生きたい訳じゃなかった」
無意識のうちに口から飛び出した言葉に私は我が耳を疑った。
布が擦れる音がして、俯いていた顔を上げる。すると、大きく目を見開いたリツカが私を凝視していた。しとしとと潤った雨空のような深い青の瞳が揺れている。
彼と同じことをする必要はない。彼と違うことをすればいいんだ。自分に出来ることをやればいいんだ。それがいつか彼の支えになればい。その為に、少しでも視野を広げられれば、今はそれで。
カルデアに来て、はじめて、心からそう思った。ただ理不尽にこちらに向かってくる濁流。圧力、恐怖、この身に釣り合わない信頼と期待。もしくは運命というもの。決して触れることも、搔きわけることもできないそれらに流され続け、空っぽのまま必要最低限生かされていた。それで良しとすら思っていた私が、はじめて自らの意思で立ち止まった瞬間だったのかもしれなかった。
*
「あれ、こんな時間にどうしたの?」
カルデアでの生活に慣れ、もはや朝と夜の差を見極める感覚は鈍くなってきていた。とはいえ現在、時計の針はしっかり深夜の2時を指しているというのに、Dr.ロマンはさも普通のことであるように、私のノックに対応してみせた。大方予想は出来ていたので驚きはしなかったが――むしろ予想していたからこそ訪問したのだが――それでも僅かに怯んでしまったことは仕方のないことだろう。
「お話があるんですけど、今時間いいですか?」
「……コーヒーでも飲むかい?」
そうして首を傾げてゆるりと微笑む彼は、リツカとマシュに並んで私には眩し過ぎるくらいの存在だ。彼のような兄がいたら、とどうしようもない事を思ってしまう程度には。
私がじっと見つめていたからか、反応がなかったからなのか、三十路には不釣り合いなほど可愛らしい表情で「ココアの方がいいかな……?」と控えめに続けた。
Dr.ロマン。ロマニ・アーキマンはカルデアの最高責任者であり、医療スタッフのトップでもある。意外だったのは、初めて訪れた彼の部屋が、私に宛てがわれたものと全く同じ間取りをしていたからだ。ついはしたなく部屋をきょろきょろと見回していた私に対して、「必要最低限の物だけ置ければいいから」と彼は頬をかいた。
ココアの甘い匂いが部屋中に行き渡るのに、そう時間はかからなかった。マグカップを包み込むようにしてその温かさを手の平全体で感じると、それまで体を巡っていた緊張が少し解れるようだった。
「Dr.ロマン……私、正直まだ夢を見ているんだろうって思ってました」
ぽつり、と呟く。向かいに座った彼は、まだ特に大きな反応は示さない。先程自分がしたように、こちらをただじっと見つめていた。
「リツカも、多くのサーヴァントもいるし、きっとすぐに全部が終わって……家に帰れるんだろうと思ってました」
私は、リツカの存在に頼りすぎていた。だって彼は、全く未知の土地でしかないカルデアで誰よりも親身になってくれたし、誰よりも友人であろうとしてくれた。
「ドクターが言っていたように、リツカのことを理解したい。けど、このままではきっと……駄目なんですよね」
俯いた私を、彼はどんな目で見つめているのだろう。旋毛に目があったならそれを見ることもできたのかもしれないが、そんなはずもなく。一度下げた頭を上げるのは、重りが首に巻きついているみたいに下げる時以上に難易度が高い。
「……なまえちゃん。人間はね、弱い生き物だよ」
こつ、とマグカップが机に置かれる音がして、私は息を飲む。
「鳥は生まれた時、巣の中にいて親鳥に守られて生きるだろう? 同じように、人間の子供も本来なら大人達に守られて生きるものだ」
「……本来なら」
「居場所が無くなったと感じたなら。今がその時なんだ。……自分で立つ場所は自分で作っていくしかない。例えどんなに酷い状況でも、立ち上がらないといけない時がある。酷な話かもしれないが、そうやって、一人で立ち上がった女性を僕は知っている。」
いつもはなかなか見せないような悔恨を滲ませた表情。真っ直ぐに此方を見つめるエメラルドの双眸のその深みには、誰の姿があるのだろうか。私には知り得ないことであるのかもしれない。
「立香くんだって同じさ。……けれど覚えておいてほしい。君達は、一人じゃないから。どんなに酷い状況に陥ったとしても、僕らがきっと支えてみせるから……それだけは忘れないでほしいな」
それさえ覚えていてくれれば、きっと大丈夫。先程口にしたココアよりも、あたたかい声。
一度ぎゅっと目を閉じたのは、涙を堪える為だけではない。血液が顔面に集まってくるのを感じながら、今日この景色とともに、その言葉を離さないように仕舞っておきたかったからだ。その、願掛け。祈りをする時はいつだって瞳を閉じるものだ。
そのまま、深呼吸をする。気分の違いだけで、幾分か今までよりも上手く空気を吸えたようにすら思えた。
「私、本当はマスターになるのが怖かったんです」
「……うん、知っていたよ」
「……え?」
「君はほんの少しだけ、僕の知っている女性に似ている。今はもうここにいないけれど……」
「もしよかったら、今度はその人の話を聞かせてください」
「じゃあその時はまた、ココアを入れてあげよう」
この人は、どこまでも甘い人なのだなと思った。
「Dr.ロマン、もう一度だけ、チャンスをくれませんか」
星のような白い光がいくつか目の前に顕現する。お互いがお互いを繋ぎとめ、やがていくつかの輪となった。星空を凝縮させたようなその光景は、初めて目にするもので、瞬きも忘れてただその輪の回転を見つめていた。
そして現れた彼を視界に捉えた時、それまで溜め込んでいたいくつかの感情が混ざり合って体内で濁流を起こした。留まりきれなかったその全てが漏れ出すかのように視界を歪ませたが、それが無性に恥ずかしくて袖で拭う。
――今度は、流されないでいよう。逆らって進むまでの力は今の私にはないけれど。ただ、変わらず大らかにそびえる木々のように踏ん張って、立ち止まってみよう。誰かが私を見つけてくれるまで、私が誰かを見つけるまで。
「What’s your nane, man?」