たまに出る子は風に逢う

 もう何度朝と夜を繰り返したか分からない。願うことは止めない。求めることも止めないけれど、それで心をすり減らすくらいなら、しばらくの間「考えること」は後回しにしてしまおうと、そう思ったのである。

 週一でおじさんを思い出しては泣きべそをかいていた私も、月一くらいの頻度までは我慢出来るようになった。少しの灯りもない闇の中で寝ることに恐怖をいただいていたけれど、今ではむしろ以前よりもぐっすりと眠れるようになってしまった。チャクラを使って壁を登ったりすることも、難しい文字を書いたり読んだりできるようにもなった。すごい成長だろう。けれど私の中で膨らみ続けるおじさんへの思いまで抑えられるはずもなく、日を重ねる毎に大きくなるばかりであった。
 君麻呂はぐんぐんと背が伸びて、ほんの少し、声が低くなった。

 

「え! お外に出ても良いの!!」

 その吉報はあまりにも突然にやってきた。どれくらいかというと、咀嚼途中だった蒸しパンが口からこぼれるくらいには突然だった。行儀が悪い、とカブト先生が眉をしかめたがそんなことは気にしていられない。本来食事は各自の部屋で行うものだが、今回は珍しくカブト先生に呼び出されたため、彼の部屋で朝食を摂っていたのだ。

「本当に、本当なの!? あいつが良いって言ってくれたの!?」

 ぎろりと君麻呂の目がこちらに向いたのには気付かないふりをする。

「そうだよ。でもねなまえ、これは歴とした――」
「わぁ、うわぁまじか! すっごい、どういう風の吹き回し?」
「なまえ、その言い方はどうかと思うよ。あと机拭きな、自分が汚したんだから」

 慌てて近くにあった台拭きでさっと机を撫でると、拭き方が甘いと怒られてしまった。どうせ最後にちゃんと拭くんだからいいじゃないよと思いつつ、口にすると頬をつねられることは分かっているのでやらない。未来予測もできる頭を持った私、つよいわ。カブト先生は大蛇丸程怖くはないけれど、おじさんよりは怖い。最近カブト先生に教えてもらった記号で表すとするなら大蛇丸>>カブト先生>>>>おじさんとなる。

 

「――待ってください」

 凛、とした君麻呂の声が響き、私とカブト先生は動きを止めた。君麻呂はおじさんの前くらいかな、とその彩度の低い瞳を見つめて次の言葉を待っていると、腹でも下したのかぎゅっと眉を寄せた彼が口を開く。

「……なまえも、行くんですか? ……僕だけで行くのではなく?」
「ああ、そうだよ。君が“連れて行く”んだよ」

 彼の言葉を聞いた途端、君麻呂の顔がいつにも増して青白くなったのは何故だろうか?

「いいじゃん君麻呂! 一人より二人だよ何事もさ!」
「嫌だ」
「アイエエ? ナンデ!?」
「はは……すごくはっきり言ったね……」
「嫌です」
「二回も言う!?」
「君の予想していることは分からなくもないけど。……でもこれは大蛇丸様からの命令だから……分かるね、君麻呂?」

 その名前を出した途端、君麻呂は黙り込んだ。分かってはいたことだけど、君麻呂にとっても大蛇丸>>カブト先生なんだろうな。彼がどうしてそこまで大蛇丸のことを好きでいられるのか、私には皆目見当つかないのだけど。

「突然で申し訳ないけど、今日にでも出発してもらえるかな? ここからは少し距離があるから」
「……僕には大蛇丸様の命以外にやるべきことはありませんので」
「私は二度寝したいかも」
「……」
「冗談だよ、笑うかなと思っていっただけだよ。なのに少し顔明るくするの止めてよ」

 こいつ……まさかとは思ったけど置いていく気満々じゃねーか!
 いつの間にか君麻呂は蒸しパンもミルクもすべて綺麗に腹に収めてしまっていたらしい。食器を重ねて片づけをはじめた彼を見て、慌てて食べかけの蒸しパンをポケットに突っ込んだ。カブト先生に凄い目で見られた気がするけど無視だ。

「待って君麻呂! 髪の毛梳かすから!」
「なまえは梳かしても梳かさなくてもあんまり変わらないと思うけど」
「それ褒めてるなら許す」
「褒めてはない」
「じゃあ許さない」

 今ここは戦場と化した。

 

*

 

 お外に出るのは何ヶ月ぶりだろうか?もしかすると一年ぶりくらいになるのかもしれない。あの場所では時間の感覚が上手く掴めなくなる。というより、それまでどれくらいの長さを一日としていたのかをすっかり忘れてしまっていたのである。
 ずっと外に出ていなかったからだろう。自分の肌が、君麻呂程ではないにしろ、以前よりも僅かに白くなってしまっていることに気付いていた。大蛇丸から着替えとして与えられていた着物もどれも白いため、日に日にその空気に、大蛇丸のものに同化していくようでちょうど嫌気が差していたのだ。
 そもそも、私はおじさんと暮らしていた頃も家の周辺の山の中をただひたすらに駆け回っていた。もっと遥か先に葉の色の違う木々が生えた森があることも、桃太郎に出てくるような大きな川があることも知っていた。その「川」をずっといくと、どこかで「海」に繋がるのだということも絵本で読んだ私は知っていた。この目にしたこともない景色も、この目に見えていながら行くことのできなかったところにも足を踏み出すことが出来るのは、素直にうれしいことである。

 しかし、そんなうきうきした気分は一枚の布切れによって覆い隠される。何これ。

「ねぇ、君麻呂、何これ。何も見えないんだけど」
「幻術かけてるから大丈夫だとは思うけど、出口への道を覚えられたら困るから、せめてここを抜けるまではね」
「はァーーん??」

 カブト先生の言葉に鼻から息が吹き抜けた。ばっっかやろう、なんでこんなチビに対してそこまで警戒するんだよ。私のこの頭で、しかもたった一発でこんな蛇みたいにうねうねと伸びた通路を憶えられるとでも思っているのだろうか?100パーセント無理だよ!
 などと彼に自虐にも程がある罵声を浴びせていると、彼は「それから両手も軽く縛っとくよ」と続けた。ポケットの中の蒸しパンに思いを馳せる。すまない、お前の存在意義が今ここで完全に消えたよ。戦力外通知だ。生かせなくて本当にすまないと思っている。ヘンゼルとグレーテル作戦が、全てパーになってしまった。しかも腰にはもふもふとした、蒸しパンの絶妙に不快な存在感のみが残るばかり。いやまって、そもそもアレって家に帰るように足跡代わりに撒いてたんだっけ……?ってことはここにまた帰ってくるつもりだったの私?……あーミスったわー。こんなことなら全部胃袋にぶちこんでたらよかったわー。

「まぁいいか。それなら帰りに逃げればいいだけだもんよ」
「それを口に出して言ってしまう度胸、正直好きになってきた自分が悔しいよ」

 心底悔しそうに先生が言う。

「それならほっぺひゅねるのやめへほひい」 

 

*

 

 久しぶりに見る青色は、記憶の中に閉じ込めていたものよりも遥かに鮮やかだった。

「そ、らだ!」

 ぐっと空を引っ掴む勢いで腕を伸ばす。何にも触れる事はない指を、そよそよとした風が撫でていく。その先に限りがないことが、何よりも嬉しかった。

 

「あるこーあるこーわたしはーげんきー」

 トトロの歌を歌いながら、まん丸とした石を蹴飛ばし歩く。

「きみまろはーげんきーじゃないー」
「……不快だな。至って健康だけど」
「だよねぇ。めちゃくちゃ骨かたいもんね、骨折とかしなさそう……まぁ私もしたことないけどな」
「当然だろう。だって僕の体は大蛇丸様のものなんだから」
「何言ってんだこいつ?」

 君麻呂はたまによく分からないことをいう。馬鹿な私は、その頃はまだ自分のことでいっぱいいっぱいで。更にいうとおじさんのことでもいっぱいいっぱいだった――。
 (比べることは罪だろうか?少なくとも、その頃の私にとっての世界、その重要度はまさしく「おじさん>>私>>>君麻呂」。その時は、そうだった。だからこそ、たまに彼が嬉しそうに零す「言葉」に、その些細な変化に、気付くことなどできなかったのだ)
 
「よし。で、君麻呂は何だっけ? 大蛇丸に何かお願いされてたよね?」
「大蛇丸様」
「……大蛇丸様」
「それにお願いではなくて……任務だ」
「ニンムゥ? なんかムーミンに出てきそうな名前だね。知らんけど」
「正直、僕一人で十分であるとしか思えない内容だし。……それに」

 ちら、とこちらに視線をよこした君麻呂に対し私は首を傾けるも、何でもない、と雑にはぐらかされてしまった。

「この先、北にある洞窟に鬼が棲むという噂があるらしい」
「えっ何それは……。何で大蛇丸はそんな危ないところに君麻呂を行かせたいわけ?」

 いや、待てよ。とここでたいして大きくないであろう私の脳みそがぐるぐると回りだす。鬼、鬼、おに。鬼と聞いて、浮かび上がってくるものといえばたった一つしかない。

「何、もしかしてお使いって鬼退治なの? すごい、桃太郎じゃん君麻呂! 正義の味方だよ」
「ももたろう……?」
「えっ」
「……?」
「桃太郎も知らないの……話が弾まないね相変わらず」

 悪かったなと言わんばかりに君麻呂が小突いてきた。骨密度が高い分めちゃくちゃ痛いから止めてほしい。バスター三積みと同じレベルで痛い。ここで私が小突き返したところで骨密度~の関係上与えられるダメージは悪い意味で桁が違うんだろうな。それどころか反射ダメージ喰らいそうだし、ここはやめとこ!

「ごめんごめん……。しょうがないな、じゃあ私がクッソうろおぼえの桃太郎を君に聞かせてあげよう」
「別にいい」
「聞けよ」

 

*

 

「確か君麻呂は北の方に行くんだっけ。私はとりあえず南の方へ行こうと思うよ。南ってこの地図の下の方でいいんだよね? あっちかな?」
「……何を言ってるんだ?」
「いやぁ初めての友達が君麻呂で本当によかったよー。あんなに拳骨が痛い友達なんてもう一生できないだろうね」
「なまえ」
「でもやっとあのしみったれた家から出られるんね。あとはおじさんたずねて三千里。君麻呂も大蛇丸のお使い大変だろうけど頑張ってね、応援してる――じゃっ!」

 

 いつかまた会う日まで!

 

「だからお前もくるんだよ」

 

 やっぱり君麻呂の拳骨は痛い。