生まれてきてからこの日まで

(君麻呂視点)

 
 ふと、終わりについて考えてしまうことがある。森の中で見つけた虫の死骸に、ぱらぱらと樹皮がこぼれ落ちた中身のない樹木に、自らの手で流した血に――時折、思いを馳せる。それが自分の望んだことではなくても、ひょんな出来事から思考が“それ”に直結してしまうのだ。
 それは次から次へと、泡のように僕の足の下からぷかりと湧き上がってくる。僕はその表面を見てしまう前にひとつひとつ、爪を立てては割って、無かったことにしようと必死になる。それでもなお湧いてくるものは少しでも浮上しないように、まさにその「イヤなもの」が湧き出るその入り口の上に腰を落として、抑え込んで見ないふりをする。何か、別のことを考えよう、そう自分自身に言い聞かせて。臭いものには蓋とはよく言ったものだ。しかし一生懸命に思考で頭をいいっぱいにしようとしたところで、その泡は僅かな隙間を見つけては、ぷくぷくと音を立てどんな想像の中にも入り込んでくる。一度その意識に気付いてしまったら、もう逃げることはできないのだ。そしてこれは僕の世界での話であって、誰に助けを求めることもできないし、僕が目覚めている限りどこまでも広がっていく。闇の中での人間の想像力は、自らが思っているよりも遥かに深く、きりのないものだと改めて思い知る。

「君麻呂」

 はっきりとしたその声に、固く閉じていた目を開く。思いの外至近距離にあったその顔はなんとも言えない……間抜けな顔をしていた。それはいつものことだった。よくよく意識してみれば、腹部に鈍い重みと圧迫感。ほんの数秒、事態を理解することに時間を要した。
 
「……なまえ、ここで、何してるの?」

 少しずつ、自分を落ち着かせるように、言葉を噛み砕きながらそう問いかける。すると彼女は口端を引きつらせながら乾いた声で笑った。

「え? あはは……まぁ、これには深い訳が」
「……聞かなくても分かるよ。どうせ、またここから逃げようとしていたんだろ?」
「それは違うよ! ちょこっと“お外”に散歩しに行こうと思って……そしたら苦しそうな声が聞こえたから、気になって寄ってみただけだよ」
「……こんな夜に? なまえは元気だね」

 元気だけがオイラの取り柄よ!とわざとらしく笑う彼女を不思議と怒る気にはなれず、ただ、「ああ、やっぱり馬鹿なんだなぁ」という至極シンプルな感想だけが僕の頭の中を漂っている。けれどそれを口にする気にもなれず、ため息と一緒に丸ごと飲み込んだ。
 こうして、他人に乗っかられていることにも気付かないほどに魘されていた僕のことなど気にしなければよかったのに。そのままあの暗い廊下の先へと進んでいれば、“何時もよりは”彼女の目指す所に近付いただろうに。決して、辿り着けるとは言わないけれど。
 相変わらず何の疑惑も映さずに煌めく丸い目には、きっと僕と同じ方向を見ていても、全く違った景色が見えているのだと思う。それが少し羨ましく思った。きっと、今も僕を悩ませているあの恐怖も、彼女の瞳には映らないのだろう。

「君麻呂、苦しそうな割に全然起きないから。こんな機会滅多に無いし、マウントとってみようかと思って。一石二鳥!」
「どうしてそう思うの……」

 最近大蛇丸様に教えてもらったばかりの言葉を自慢気に発したなまえに、その使い方に、怒りを通り越してただ呆れが募るばかりである。

「だって組み手で勝てないんだもん。実はもう既に一回殴ってみたんだけど、君麻呂かったいの忘れてたわ」
「最低だなまえ。最低」

 少し赤くなった手首をぶらぶらと揺らす彼女を一瞥する。ただでさえ気分がまいっているいるところにドッと疲れる面倒臭さの塊みたいな存在を目に入れるのは苦痛でしかなかった。「今はもう話したくない。無視しよう」。浮かんできたのはたったひとつのシンプルな答えだ。
 再度瞼を下ろしかけ、そこで止めた。いや、止めたというよりは瞬時にフラッシュバックしたあの光景が僕の動きを縛ったのである。だめだ、邪魔者がいようといまいとあれらは関係がないんだ。“それ”は、どこからでも、どこにいても、僕を絞めるようにゆっくりと纏わり付いてくる。

「ん? 君麻呂どうかした?」

 動揺を表に出したつもりはこれっぽっちもなかったのだが、腹立たしいことに彼女は変なところで鋭いようだ。

「……別に」
「いやな夢でも見たの?」
「違う……」

 彼女に悟られてしまったことが、自分で思っている以上に悔しかったのだろうか。反射的に、されど力なく飛び出した言葉は、更に彼女の興味を煽るだけであるということなど、容易に想像できたろうに。
 今日はしばらくこの状態が続くのだろうということは今までの経験から理解できていた。再び瞼を閉じる度、その薄く黒い膜の表面に、あの格子が映るのだ。嫌というほど、それこそ目に、瞼に焼きつくほどに見てきたあの格子がすぐ目の前にある。僕と、なまえの間にそれは揺らめいて、いるのに。これは僕の心象映像だ。それは分かっている。こちらへと伸びてきたなまえの腕はその存在に触れることはない。そして僕に触れることもなく、ぴたりと止まる。

「なんで泣いてるの。あっ……もしかして私が重いから?」

 何故泣くのか。それを、なまえに伝えたところで何になるというのだろうか。

 

*

 

 そっと天井に向けて開いた手のひらを見つめる。枕元の灯りだけしかないこの部屋では、ほとんどの物が闇の中に溶け込んでしまっている。その中でじわりと滲むように浮かぶ白い手は、自らのものでありながら、まるでその闇から生えてきた別の生物のもののようにすら思えた。

「君麻呂、大丈夫?」
「……早く戻るんだ。君が部屋に帰らないと、大蛇丸様が怒る」
「えー戻らないよ。こんなチャンス滅多にないじゃん」

 じゃあ早く僕の前から消えればいいのに。反射的に、感情に任せて口から飛び出そうになった言葉を、すんでのところで捕まえる。

「難しいこと考えるのはやめてさ、もう目が覚めちゃったんなら一緒に遊ぼうよ。最後にいい思い出つくってあげるから、よ」

 なまえは目を二、三度瞬かせてから羽のように軽い口ぶりで続けた。

「君のその自信は一体どこから生まれるわけ。……別にいらない」
「うっそだろおい。なまえちゃんとの最後の夜だぞ」

 彼女が何を息巻いているのかは知ったことではないが、きっとこれが最後ではないので安心した方がいい。確実に最後ではない。そのうち、誰かが彼女のありあまる気配に気づいてやってくるだろう。僕はなまえがいる限り安心も安眠もできないので皮肉なものだが。

「やっぱり嫌な夢でも見たんじゃないの?」
「だとしても、なまえには関係ないだろ」

 “思い出”などというものにたいして僕は然程興味を惹かれない。彼女は想像しているものと僕が想像しているものは、きっと形も色も、匂いだって違うのだろう。それこそ、現在進行形で僕を苦しめているのも彼女が「思い出」などという綺麗な音で飾った、記憶の残骸だ。実体があるものならばすぐにでも突き刺して引き裂いて視界から消してしまえるだろうし、きっとそれは僕が何よりも得意とすることであると言えるだろう。

「……君麻呂って誕生日いつ?」

 ぽそりとなまえが呟いた。

「誕生日……?」
「えっ、誕生日も知らないの……えっと、そのまんま自分が生まれた日のことだよ」

 それくらいは勿論僕だって知っている。ただ何故いきなりその話になるのがが僕の頭ではうまく結びつかない。改めて目の前の人間とは別の生物であると思い知らされる。

「おじさんが嫌なことを思い出しちゃったときは、逆に良いことを思い出せばいいって言ってた」
「良いこと? ……誕生日が、良いこと?」
「だってそうでしょ。おじさんにおめでとーってお祝いしてもらって、年に一度のケーキが食べられて、なおかつおじさんのおかず取っても許される日だよ」
「……僕、おじさん知らないんだけど」
「……あー、そっか。そうだよね」

 形容し難い空気が夜の湿気と混ざり合って呼吸をするのが億劫になるほどであった。なまえは、自分の視界だけが世界であると思っているのだろうか。
 冷ややかな視線を送られていることにすら、なまえの能天気な頭では理解することもできないのだろう。じゃあ、と手を叩きまたも軽く言葉を紡ぐ。

「生まれた時のことを考えてみようよ」

 また何か言い出したが、そろそろ部屋に帰ってくれないだろうか。ただでさえなまえに涙を見られたということにたいする屈辱感でいっぱいだというのに。

「君麻呂はどんなところで、どんな時に生まれたのかな」
「そんなの……僕は知らない。……なまえは知ってるの?」
「え? 知らない」
「……じゃあ僕に聞くなよ」

 物心ついた時には、あの格子が目の前にあった。今も視界を散らつく無機質な黒。暗い洞窟。土の匂い。僕を蔑み吐き捨てるような声。
 それ以外のものなど、ここ数年前まで僕は何も知らなかった。

「おじさんが言うには、赤ちゃんは鳥が連れてくるらしいんだよ」
「……それ絶対嘘だよ。あの爪が赤子を運べるわけがない」
「おじさんは嘘吐かないよ? ……じゃあ聞くけど、君麻呂は知ってるの。自分がどんな風に、どこで生まれたか」
「だから、僕もなにも知らないんだ……」

 寝返りを打つようにして顔を逸らす。これ以上意味のない会話を続けることに嫌気がさしていた。
 上に乗ったままだったなまえは、僕が動いたことでバランスを崩したのか、ことりと横に倒れる。落ちる寸前で耐えたのか、上半身がベッドからはみ出した状態で冷や汗をかいている。かなり体が軽くなったが、依然として気分は重い。

「……君麻呂は白いから、うさぎから生まれたかもね」
「……はぁ?」
「だってさぁ、桃から生まれた桃太郎もいるくらいなんだから」

 桃から生まれた……?と首を捻る僕に対し、「竹から生まれたかぐや姫もいるよ」とまた摩訶不思議な言葉を続ける。

「……桃って、なに」
「ウッソだろおい。正直、『桃太郎って何?』って聞かれる予感はしてたけどそれ以前か。……えっとね、桃はくだものの名前だよ。かわいいピンク色したくだもの。食べたことないんだけど、甘いらしいよ」
「……へぇ」

 しかしどうにも、果物から人が生まれるというのは信じ難い話であった。それならまだ鳥の方が信憑性がある。
 昔の僕は、『神様』が人間を生むのだと思っていた。僕はその『神様』の姿を見たこともなかったが、一族の人間達の会話からその存在を知った。自分たちはその神から生まれ、神からいただいた力があるのだと。だからこそ神に最も近い存在なのだと、恍惚した表情で語っていたのを覚えている。
 『神様って本当にいるの? いるならどうして僕をこんなところに閉じ込めるの?』
単純な疑問が憎しみや憤りに変わるのはあっという間だった。必要がなかったのに、なぜ僕を生んだのか。なぜ生きる僕を苦しめるのか、それを問いつめる術を僕は知らなかった。

「でもさぁ、私の周りにコウノトリもいないし桃もなかったし――本当はおじさんが生んだんじゃないかなと睨んでる」
「おじさんが……」

 きゅっと眉をひそめ、小声気味に彼女は語る。

「だって、わたしを見てくれてるのっておじさんだけでしょ? で、名前をつけてくれたのもおじさんだし、ごはん食べさせてくれたのもおじさんでしょ。だから『私』を生んでくれたのはきっとおじさんなんだよ」
「ちょっとおじさんが多すぎて僕よく分からない……」
「おじさんは一人だよ」
「そういうことじゃなくて、」

「だっておじさんがいなかったら“私”、生きてないよ。今も」

 なまえが、濁りのない目で真っすぐと僕を見据えるものだから、「僕、だって」と、言い返すように口を尖らせるも、そこで止まってしまう。ここに来た頃は毎日泣いてばかりだったのに、悔しい。
 僕には、なまえに胸をはれるような記憶はひとつもなかった。けれど、心の内で大切にしている記憶ならひとつだけあった。それを彼女に打ち明けることを、躊躇う程に。

 

*

 白の記憶があった。それまで真っ黒に塗りつぶされていた僕の記憶の中で、唯一朧げに光る、白い記憶だ。

 

 かぐや一族は血継限界の力に溺れ、傲慢かつ猛悪な性質を持っていた。自らの力を過信した結果、無謀にも数十名という数で里を相手にした愚かで哀れな一族。僕もまた、牢の中から連れ出され戦いに参加したが、結局生き残ったのは僕だけだった。
 自由になっても心が晴れるようなことはなく。霧の中をあてもなく彷徨っていた。

『僕はどうしてこんなところにいるの』
『僕は何か悪いことをしたの』

 生まれた意味など分からないままに暗闇の中で生きてきた。それが無性にむなしくて、人と違うことが悔しくて。生きる意味を見出せさえすればきっと今よりも良くなるのだろうと信じていたけれど、そんなものはどこにもなかった。生きる意味がないのなら、言葉通り死ぬしかないのではないか?死んだらどうなるのか?ただ誰にも惜しまれることもなく、何も残すこともなく、ぷちんと、全てが終わってしまうのだろうか?それは嫌だ。いやだ……。そう思うのに、どこを探しても生きる意味を、生きようとする意味を見つけられない。そんな暗鬱とした考えのみが頭の中を渦巻いていた。自由を手にするのが、あまりにも遅すぎたのだ。
 自分が何も持っていないことに恐怖を感じていた。自分を体現するものがこの忌々しい血でしかないことにも恐怖を感じていた。静かな夜にも、闇にも。「何もかもがなくなってしまう」。「何も残せないままにここから消えてしまう」。二つの感情が何よりも僕の頭の中をかき乱す。その闇、その無への恐怖が今も僕を苦しめていた。

 うつむくように地面に向けて花弁を広げる白い花に、目が止まった。それは、霧の里を襲う前にも見かけた花で、あてどもなく彷徨ってはいたつもりが、来た道を戻ろうとしているのかもしれなかった。……戻る場所などありはしないのに。
 しゃがみこんでその造形に目を凝らす。名も知らぬ白い花は、ひっそりと、霧の中に溶けるようにして咲いていた。

『どうしてこんなところに咲いているの』
『誰かに見られるわけでもないのに』

 喋ることなどない花にひとり、腹の中に溜まっていた毒を吐く。その白く惨めな姿が、だんだんと自分と重なっていく。虚しくて、腹立たしくて、骨の劔でぐちゃぐちゃにしてやろうと手を振りかざした。

 ――ああ、そうだ、その時だった。
 霧の中でもはっきりと存在を認識できるそのチャクラの濃さ。ぬらりと光る金の瞳。細い腕。霧の里を襲う前に会った時とは全く違う印象を僕に抱かせた。

『きっと生きてる事に、意味なんてないのよ』
『でも生き続ける事で面白い事を見つけられるかもね』
『あなたがその花を見つけたように、あたしがあなたを見つけたように』

『さぁ、行きましょう』

 あの時、大蛇丸様は僕にそう言った。忘れたことはない、忘れたたことなど一度もなかった。けれど。

 雛が卵の殻を破るように、蛹が蝶になるように、蛇が脱皮するように、それまでの自分を破壊して生物は新しい姿を得る。大蛇丸様の口癖だ。難しいことは分からない。けれどそれが真実だとするのなら、大蛇丸様に見つけてもらえた時、僕はようやく生まれることができたに違いない。
 そうだ、僕は――。

 

*

 

「僕だって、大蛇丸様がいるから、生きてるんだ」

 ぽろりとまた涙が落ちる。
 あの頃はまだ小さくてよく理解できていなかった。ただ必要とされていたから、僕のこの血を美しいと言ってくれたから、彼についていこうと思った。
 大蛇丸様は、生きることに意味はないといった。だから僕も、彼がいうのならそうなんだろうとずっと思っていた。
 けれど、僕にはあの時から大蛇丸様がいた。僕は大蛇丸様のものになった。彼自身にそのつもりはなかったとしても、大蛇丸様の存在こそが、僕の生きる意味になったんだ。
 僕は、こんなに大きなものを今、抱えている。例え今死んでも、何もかもが無くなってしまう訳ではない。

「そういう意味では……僕も大蛇丸様から生まれた、のかな……」

 なまえは馬鹿だからと、つい否定から入ってしまう癖がついていたけれど、その全てが間違いということもないのかもしれない。彼女が言っていたことが、今の僕には少し理解できた。

 ――のに。

「えっマジで!? どこから!? 口、それとも鼻からか!?」
「……は?」
「大蛇丸、口大きいしどっちかというと口だろな……。銀のベンザブロック……やば……生命の神秘じゃん……」
「……」

 ぱさりと布団を捲って体を起こす。なまえは「お」と小さく声をもらしてベットから飛び退いた。

「なまえはおじさんから“生まれた”んたよね?」
「多分ね。多分……漫画みたいに召喚したんじゃないかと思う」

 なんでだろう。言ってることはよく分からないが、僕より遥かに浅い思考であるということだけは分かる。一瞬でもなまえに感謝した気持ちがどこかへ飛ぶ程に腹が立った。やっぱりなまえは馬鹿だ。

「……目が覚めた。なまえのせいだよ」
「いやもともと目ぇぱっちりだったじゃん君麻呂」
「なんでもいいから。……一戦、付き合って」
「……エッ、マジに?」

 なまえの顔がサッと青く染まる。気のせいか、先ほどまでよりも随分とはっきりその様子が分かる。もう、僕と彼女の間にはなんにもいない。

 

(2017.06.15/君麻呂の誕生日)

余談:人の誕生について、二人がカブト先生に本当のことを教えてもらうのは、これより数年後の話である。