一度決めたらどこまでも

 
 ぺたぺたというこの情けない音をどうにかしてやりたい。誤って死なない程度に息を殺し、服の擦れる音も極力しないように上半身の無駄な動きを避けているというのに。なんにも履いていない、一番身軽なはずの箇所が足手まといになっている。足だけに。……今の忘れて。

 ――すすす、ぺたぺた。すすす、ぺたぺた……。

 むむむ、と口を拉げて唸った。生きている以上、何かに干渉している以上は、どう頑張っても全ての音を取り払うことはできないのだろうか。走れば音が鳴るのはもちろん、ゆっくりゆっくりと歩いても、つるつるとした石の床に土踏まずが吸い付く。何にもない洞窟。どこまでも続く壁。少しの音も逃さずにそこに留まらせ響かせるせいで、どれだけ私が気を使ってもほとんど意味がない。
 いや、何よりも私を阻むのは――と、そこまで考えて私は足を止めた。視界に映ったそれが、私の逃亡劇の終わりの鐘を鳴らす。なんといやらしいタイミングだろうか。

「見つけた」

 いつも、気付くとそこには白い少年が立っていた。
 悔しい。近付いてくる君麻呂の気配に、いつも、まったく、ほんの少しだって気付くことができないのが、何よりも悔しい。音もなく、前振りもなく暗闇の向こうに白い顔が見えた時点でゲームオーバーである。そこからいくら反射神経を利かせて走り出しても、もう逃げることはできないということはこの数週間で学んだ。ホラーだよ。

「ちくしょう……今回も駄目だったよ……」

 情けない自分への苛立ちからか、あまりにチートすぎる君麻呂への畏怖からか震える声で言葉を絞り出した。

「いつも駄目だよ、なまえは」

 たいして、苦労も疲労もしていないとでも言うかのように。いつも通りのムを貼付けた顔で、君麻呂は私にトドメをさした。

 

 私はあの日、おじさんを探すという決意をして以来、このしみったれた洞窟から抜け出そうと幾度と無く脱走を試みていた。
 今日のように気配を消してじわじわと逃げ出そうとしてみたり、部屋に穴を掘ろうとしてみたり(石だから素手では掘れないので諦めた)、スタートダッシュで走り抜けたり(何故か正面にいた君麻呂に即ノックアウトされた)、君麻呂の部屋に水をまいて滑るように工作してみたり(漫画みたいな跳躍力で飛び越えられた上に自分が転けた)……等々、布団の中で必死に考えたどんな作戦も、ことごとく失敗していた。
 君麻呂も私も飽きないように……じゃなくて、油断をつくために日でバリエーションを変えたりもしていたのだが、彼にとってはクソ程どうでもいいことのようで、適当にあしらわれた上で捕まってしまう。それは当然といえば当然だろう。私は彼にとってただ面倒な存在に過ぎない。大蛇丸からの命令で、私を逃がさないように監視している。ただそれだけ、それだけの意思を持たない行動というのは、子供ながらに理解していた。実は、それが一番つらかったりもするのは内緒である。だって、ここではそれ以外、私にできることがない。することがないのだから――。
  君麻呂は私との会話をあまり好まない。そもそも、人と関わることが好きではなさそうだ。でも私は違う、今まで関わりがなかった分、なるたけ関わりたい。おじさんが傍にいない今、その思いは日々募っていくのはしょうがないことだと思う。ワガママだ!ってのは、おじさんに言われ慣れている。

「いい加減諦めたら?」
「やだね、絶対にここから逃げ出してやるんだから」
「君じゃ僕には一生勝てるはずがない。わざわざ血継限界を使う必要もないんだから」

 彼が時折口にする、「ケッケイゲンカイ」という言葉の意味がよく分からない。が、彼のあの特殊な能力のことだろうというのは流石の私でも察することができた。何度か見た、あの白い骨。

 

「……でも今日は昨日より数メートル進めたもんよ」
「……ねぇ。きっと気のせいだよ、それ」

 彼はそう言うけれど、これは本当なのだ。何度も脱走未遂を繰り返すうちに分かったことがある。まず、この入り組んだ迷路のような細い洞窟の――ほんの一部ではあるが――その間取り。以前、カブト先生から落書き用にもらった紙とペンにそれを日々書き込むようにしている。当初の目的通り落書きがほとんどであるが……それはブラフ(大嘘)で、他にも気付いたことがあれば書き込むようにしているのだ!えらいでしょ!……まぁおそらくそのことも君麻呂は気付いているのだろうけれど、没収されたり破られたりしないのをみるに、私のことをめちゃくちゃなめきっているのだろう。やったね!!……じゃないわ!!ちくしょう、見てろよ。いつか絶対見返してやるからな!!
 次に気付いたのは、カブト先生がどこかに出かけたまま帰って来ていないということ。今、この洞窟にはおそらく私と君麻呂と大蛇丸、そして見た事はないが数人、大蛇丸の仲間がいるようである。

 そして、気付いたこと3つ目は。本当に、この世には「ニンジャ」がいるということだ。

 

*

 

「この状況に慣れるな、とは言わないけれどなまえ……あなた前より少し丸くなったわね。色んな意味で図太いというか……」

 久しぶりに会った大蛇丸は、私をじっとりと眺めてから、そう呟いた。えー私が丸い?そうかなぁ?

「君麻呂、私まるい?」
「……」
「あ、スルーだなこれ」

 基本的に君麻呂は大蛇丸がいる時は私に対する当たりが強いということが最近分かった。彼がなんとも言わないので気付くのにかなり時間を要したが気付いたところでちょっとよく意味が分からない。

「……なまえもそろそろ鍛えましょうか」
「え? 何を?」

 普通に答えただけなのに、瞬時に隣にいた君麻呂から頭を引っぱたかれた。突然の衝撃に何が起きたのか分からないまま君麻呂の方を向くと、「大蛇丸様にたいして何だその態度は」と、その目がが語っていた。目じゃなく口で語ってほしい。そしてやたら骨密度の高い手で叩かないでほしい。切実な願いである。全く、「わたしにたいして何だその態度は」。痛い、今度は抓られた。

 君麻呂がどうしてそんなに大蛇丸を尊敬しているのかは謎だし、私には教えてはくれないだろう。それは今はいいのだ。ただ、私が大蛇丸尊敬する理由はない。むしろ嫌いというか、大嫌いである。こんな状況になってしまったのは全て彼のせいであるのだから。
 とはいえ、食事はちゃんと摂れているし(あんまりおいしくないけど)、部屋もあるし(あんまり綺麗じゃないけど)……何より、今のところ大蛇丸が私にけがをさせるような行動をとったことがないので、私も何もしない。

 ちろりと唇を舐めてから、彼はどこか遠くを見るように目を細めた。

「来たる時に備えて、ね」
「来た……? うーん、よくわかんないけど……鍛えたらここから逃げ出せる?」
「私の目の前でそれを言うあなたの根性、嫌いじゃないわよ。でもそうね……君麻呂を倒せるくらいに強くなったら、逃げ出せるんじゃなかしら? それができれば、の話だけど」
「……君麻呂を倒す?」
「そう」
「誰が? 私か」
「そうよ」

 ふ、とひとつの考えが頭に浮かんだ。
 ①ここから逃げ出したい→②逃げようとすると必ず君麻呂に捕まる→③にげられない! これなんだよね。でももし仮に、この②の君麻呂を先に除外できていたなら、いろいろ作戦を企てる必要もなく逃げることができるのでは?(世界を舐め切った頭の悪い子供の考えである)
 確かに、今までも君麻呂の寝込みを襲おうとしたり、寝ている間に布団でぐるぐる巻きにして身動きとれなくしようと思ったことは何度もあった。しかし寝ていないのだ。私が彼の部屋に入ろうとすると、否、もしかするとそれよりずっと前から、私の気配を察知した君麻呂が待ち構えているのである。ホラーだわ。

「そっか……逃げる必要も寝込み襲う必要もないんだ……圧倒的パワーで君麻呂を倒せばそれでいいんだ……」
「ちょっと今聞き捨てならない言葉が聞こえたけど気のせいかしら」
「でも、そんなことできるの!? どういう裏技!?」

 もしかしてセレクトバグか!?とひとりで興奮していると今度は大蛇丸に頭を叩かれた。しかし、君麻呂のそれよりは痛くない。

「本当はカブトあたりがいいのだろうけど……今はしょうがないわね。基本的なチャクラの使い方や組み手は君麻呂に教えてもらいなさい」
「……チャクラ? おじさんがよく言ってたけど、私あれよく分かんないなぁ。使うとか、それがあるって感覚すらないもんよ。おじさんの真似をしたことならあるけど……」
「ずっとそれでは困るわ。そうね、立派な忍になるための特訓とでも言っておきましょうか?」
「しのびぃ? おじさんの本で読んだ事あるけど、本当に忍っているの? 信じられないなぁ」
「そのおじさんも忍よ」
「またまたぁ」

 などと、私と大蛇丸がしょうもない話をしている間、「倒される予定の人間」が心なしか苦い顔をしていたことを私は知る由もなかった。

 

*

 

 あ、と思った時にはもう遅かった。打ち込まれる拳は、重く私に沈み込む。

「ッ――痛い!」
「殴っただけじゃないか」
「な、殴ってるやんけ……」

 似非関西弁が飛び出てしまったけれどそこは許してほしい。けれどふざけたのもそこまでで、次の瞬間には「わーん」と声をあげて泣いていた。君麻呂がびくっと肩を奮わせたが、そんなことは気にしてられるはずもない。私はただ、殴られた横腹が痛くて痛くて、手で押さえて倒れ込んだ。そこが黒い岩で覆われていることもすっかり忘れて頭を打ち付けてしまい、鈍い痛みに冷たい床を転がった。セルフ追い打ち。
 その間、君麻呂はただじっと私を見下ろしていた。眉を、ほんの少しだけハの字に下げて。

「痛いよ」

 しのび、になるための特訓だとかよく分からないことを大蛇丸は言っていたが、私はただ、君麻呂を倒す=ここから出られるという短絡的なことばかり頭で考えていて、その本当の意味を知ろうともしていなかった。鍛える、とか、強くなるとか、倒すとかそんな言葉の意味も。
 人に、殴られるのって痛いなぁ。頭をぶつけるのって痛いよなぁ。おじさんにも殴られたことないのに、自分と同じくらいの歳の男の子に殴られるだなんて、あの頃は思いもしなかったなぁ。地面に張り付いていた顔をあげると、かすかに染みができているのに気付く。さらに視線をあげると、滲んだ視界で君麻呂が揺れる。一度瞬きをして視界を晴らすと、彼はふい、と目を逸らした。

 ああ、と思う。本当は、友達が欲しかったな。やっと外の世界に出たのに、おじさんがいない。それでも、人生ではじめておじさん以外の人間に出会えたのだ。少なくともその事実が私の救いになるはずだった。君麻呂と仲良くなって、あわよくば逃がしてもらおうなんて。
 本当は、彼しか知らないことを聞きたいし、私しか知らないことを話したい。そうして共感したり、喧嘩したりしながら仲良くなっていくのが「友」だって、昔漫画で読んだのだ。監視役でも、逃げるための通過点でもない。どんな困難な時でも応援してくれたり、手助けしてくれて、それで一緒に苦しみを乗り越える。はず……なのになんで殴られてんだろうな。

 でも――。

「でも、絶対逃げ出してやるからな」

 鼻をすすって、涙をぬぐって暗い壁の向こうを睨みつける。まだお腹も頭も痛いけど、おじさんのことを思えばこんなのへっちゃらである。

「なまえは、なんでそう……」
「……うん?」
「なんで、諦めようとか、思わない? 僕に勝つなんて、ここから逃げるだなんて絶対に無理なのに」

 彼のそう言った問いかけはこれがはじめてではなかったが、今回はいつもよりもその顔に困惑の色を浮かばせていた。

「僕は、骨が折れてもまた作り出せる……」

  ぐぐぐ、と彼の腕から白い骨が突き出した。君麻呂の力を見るのはこれがはじめてではないが、その度に目を背けたくなるのは仕方のないことだろう。

「カブト先生なら、どんなけがでも治せる……」
「……そう、なの? はじめて知ったよ」
「でも君はなんにもできない。おじさんに会いたいってことはもう何度も聞いた。けど、そのために今の痛みよりももっと鈍くて、鋭い、血が飛び散る程の痛みが襲ってくるかもしれない」
「そうかもね。私も痛いのはいやだよ。……けど諦めるのは……嫌だし。……おじさんに会えないのはもっと嫌だ」

 私はワガママだから、一度これがいいと思ったら、そうなるまで気が済まない質なのだ。

「だから……いいよ。頑張る。トックンしよ、拳で語り合おうぜ、心の友よ」
「友じゃない」
「あっはい」
「……でも、本当に知らないよ。僕は忠告したからね」

 おやおや。おやおやおやおやおやおや?

「君麻呂……もしかして」
「なに?」
「私のこと心配してくれてるの? あはは、いつもぱんぱん人の頭叩いてたのに?」
「心配……? 僕が、なまえを?」
「ありがとう! でももう大丈夫。私は風の子、元気な子~ってね」
「ありがとう……?」

 あ、でも少しは手加減してほしいかな、とこっそり付け足すと、彼の表情が少しだけ和らいだのが分かった。
 君麻呂は、突出させた骨をまた彼の体内にしまった。一体どういう仕組みになっているのか分からないが、私もチャクラとやらの使い方が分かればできるようになるのかな、とそんなことをぼんやりと思った。

「僕は……強い痛みを感じたことがない……お腹が減ったりとか、ひどい寒さで死にそうになったことならあるけれど。……だから、手加減はできないと思う」

 君麻呂のその言葉にぎょっと目を剥く。あまりに、あまりになんでもないことのように言うのが私には信じられなかった。それは「手加減ができない」ということに関してではない、いや、それもそれで私にとっては大問題で「ぎょっと」することではあるのだけど。

「痛みを感じないの? 全く?」
「全く……ではないけど。血が出たことはないかもしれない。そもそも僕に傷をつけるなんて一族の人間でも――いや、あれはちがう、から……うん、ないんだ。人から傷をつけられたことが」

 何故こっちを見るんだと少し訝しげに見つめ返すとすぐに目を逸らされた。まるで、私のせいで傷ついたことがあるとでも言わんばかりだ。「わたしだってなかったよ、君麻呂がはじめてだよ」と、言うと珍しく彼が狼狽えたのが分かった。図星だったのかもしれない。いつも頭を引っぱたいたりするくせに今更何を……と思ったが私だって罠をしかけたり安眠を妨げたりしてるからお互い様か、とすぐに考えを改めた。

「私は……ずっとおじさんと一緒にいたし、転けたりとか火傷したりとか……花冠作ろうとして葉っぱで指を切ったこともたくさんあるよ」

 思えばけがをしない日の方が少ないのではないだろうか。傷を負った記憶のある箇所を指差しつつ、その時の状況をいくつか語るも、君麻呂にはいまいち伝わっていないようだった。ただ私の説明が下手くそなのかもしれない。けれど彼は口を挟むこともなく、静かに耳を傾けてくれていた。

「そうそう、昔、大きな木から落ちたことも――」

 と、服をめくりかけて思い出す。あの時脇腹にできた傷は、もうとっくの昔に消えてしまったのだった。けれど、あの時の痛みは今も覚えている。ついさっき受けた君麻呂の拳よりも、遥かに痛かったはずだ。不思議な事に、“ついさっき”受けたばかりの痛みの方が、既に端から薄れるように忘れさられていく。本当に不思議……。
 体が微かに震えた。外気に晒されたお腹が冷えてきたのだろう。慌てて手を離すと、空気をのせた軽い音とともに元に戻る。その様子すら君麻呂は黙って見つめていた。何故だか、ほんの少し恥ずかしさを感じた。

 

「……なまえって、どんなところに住んでたの?」
「え?」

 つい、「今、なんて?」と彼に聞き返してしまった。
 君麻呂が“私のこと”を聞いてきたのは、私の話を聞いてくれたのは――その日がはじめてだった。