「おじさんがどこにもいない」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に拾われる訳でもなく地面に落ちて潰れた。おじさんが、どこにも、いない。ゆっくりと確かめるように復唱する。足下に広がる自らの声の残骸が目に見えるようだ。積上っていくそれを見れば見るほど、ますます気持ちが下向していくのが分かった。
君麻呂の部屋にいたはずなのに、いつの間にやらこの固いベッドの上で眠っていたらしい。起きたらおじさんがいればいいのにとか、健気に願う間もなく眠りこけていたのだろうか?我ながら神経図太いと思う。その分、今傷付いているのだけど。
思い返せばどうしてこんなことになったのか。彼の手から突き出てきたあれは一体何だったんだ。そもそもあれは夢だったのだろうか。
白い剣のようなものも、飛び散った赤も――彼に傷付けられたのも全てが、朧げに頭の中で揺れる。現実では到底あり得ない出来事のオンパレードであった。しかも、手で心当たりのある場所に触れてみても、傷が残っていないのである。……やはりあれは夢だったのだろうか?ない頭で思考を巡らせたところで、答えらしいもの見つからない。
そう、確かに、私の体にはなんにも残ってはいない、のに。
「どうしてこんなに、いたいんだろう……」
きゅっと自分の体を締め上げるようにかき抱いた。いたい。怪我をしたはずの箇所ではないどこか、手では触ることのできない体の中のどこかが、掻きむしられているかのようにズキズキと重い痛みを伴い続けている。それははじめて感じた痛みであった。けれど、その痛みの原因を見つけるのに、たいした時間はかからなかった。
ここは冷たい。あの隙間風の多い家で迎えた幾度かの冬の夜よりも、遥かに冷たい場所。
「そっか……おじさんが……」
いないからか、と再度呟いて力なく再びベットに沈みこんだ。きっとおじさんがいないから、こんなにも痛いのだ。だっておじさんといた時には、全く感じたことのない痛みだもの。
私は君麻呂の言葉を思い出していた。おじさんがいない。もしかすると、彼の言う通り、おじさんはもうこの世界のどこにだっていないのかもしれない。そもそも、私の視界にいない時点で、世界にいないのと同義である。私が思い浮かべる最古の記憶から、常におじさんは私の傍にいてくれた。鬱陶しいと感じる日もないとはいえないが、それでもいつでも傍にいてくれたのだ。けれど、今はいない。考えれば考える程、嫌な想像が頭の中で代わる代わる駆け巡り、容赦なく私の核を削っていく。
ついには瞼をきつく結んだ。それが合図になったかのように、涙が、瞼の隙間から滲み出すようにして睫毛を濡らした、その時――。
『どうしてもういないのだと決めつける?』
真上から降ってきた声、もしくは雑音に閉じたばかりの瞳を開く。どちらか断定することができなかったのは、それが人の声であるとは到底思てなかったからだ。ぶぉん、と強い風が吹いた時に聞こえる唸りのようでもあり、はたまたすきま風のようなか細くも甲高い音にも似ているような気がする。
反射的に瞳を開いても、僅かに潤いを伴った視界に人影はない。……幻聴か?私は何も聞かなかったことにして、寝返りをうった。
『本当にどこにもいないの?』
まただ。また聞こえた。残念ながらどうやら幻聴ではないらしい。
『眠ってはだめ。諦めてはだめだ。何の為に、きみにすべてを託したと、思っているの』
「……いないよ。おじさんは、もう……」
今度は先ほどよりもはっきりと「声」として聞こえた。私は少しうんざりした気分で答える。受け止めるには大きすぎて、重すぎて、それどころかまともに触れることすら躊躇っていた事実に向かって、容赦無く背を押すような言い振りだ。幻聴だろうとそうでなかろうと知るもんか。と、私は無視を決め込むことにした。……が。
『本当に?』
「……」
『本当に彼はもうどこにもいないの?』
「……なんだこいつおじさん以上にしつこいぞ」
『まだ探してもいないのに、どうしてそんなことが言えるの?」
「うるさい……!」
「……世界は広い。思い出して。昔描いていたあの地図を。あの四角い世界よりも遥か遠く、きみが本当に帰る場所が……きみが行くべき場所がある』
「……うん、ていうか」
誰だお前。
ベッドから飛び上がりつつ、思わずそうツッコんだ。いや本当に誰なんだよ。さっきから随分と慣れ慣れしいが、ここじゃ私の方が(一週間程)先輩なんだぜ?などと調子づいた振りして再度、その声がする方へと顔を向けた……ところで私は目を見開く。何故なら先程まではなかったはずのものがそこにあったのだ。
「なに、これ……」
青白い物体……という表現が正しいのかどうか。それを見た瞬間に自分の頭の中のどの言葉にも当てはまらない存在を、存在として認めることを拒否していた。ゆらゆらと揺れる影の向こう側に、無機質な色をした壁が透けて見える。恐怖からか、驚きからか、唸るような声が口から漏れた。静かに視線を落とし、そしてもう一度顔を上げた。それから薄眼で見たり、指で瞼をかっ開いて見たりもしたが、やはり状況は変わらず、“それはそこにいて、透けていた”。例えるなら「和紙に、墨汁を垂らした時のような滲み。その中心あたりから、同じようにじわりと宙に溶けるように半透明な腕が生えている。」……?
そして、あるものを視界に捉えた瞬間、直接頭に流し込まれるような既視感が私を襲う。
ぽつりと浮かぶ、二つの青。……ああ、そうだ、わたしは“あれ”を知っている。
『――これをあの子に届けてほしい。これはあの子の大切なもの、あの子の――』
わたしがまだ幼いころに、わたしはこの存在と出会っている。
『思い出して……』
「あの時の……悲しそうな人……?」
人であるかどうかは正直微妙なところだが、とりあえずそう呼ぶことしか出来なかった。先程まで鬱陶しいくらいにこちらに話しかけてきていたのに、私のその言葉に対する返答はない。
ふと、私の周りにも漂っていた青白い靄が一点に集まり始めた。そしてまるで生きているかのように、鼓動にも似た周期で、集合と拡散を繰り返している。あれはなんだろう。あれは何がしたいんだろうと、しばらくその様を眺めていた。
そして瞼は上がっているのにも関わらず、段々と狭まる視界。逆らう事もできないまま、電気を消したときのようにぱちりと、視界が黒になった。
目を開けた時、眼前に広がっていたのは今までと全く違う世界だった。突然の出来事に、私はしばらくの間頭も体も、時間が止まってしまったかのように、うまく動かす事ができなかった。
――何もない、真っ青な世界。遠くは絵の具が薄まったように僅かに白みを帯びてはいるが、それでも青い。絵の具が、とはいったものの、濃厚でありながら透明感もあるその青には、私なんかがどんな画材を使っても表現できない美しさがあった。
360度全てが“空”になってしまったような場所だ。と、そこまで考えて足下を見下ろしてみた。予想通りそこには他と変わらずのっぺりとした、けれども鮮やかな青が広がるばかりで、私の影すら落ちていない。地面という概念が取っ払われている。それがあまりにも不思議で、奥というものもないのにその深みを探し目を凝らした。
それにも飽きた頃。ずっとその場に立っていてもしょうがないと、そう考えた私は恐る恐るその場から一歩を踏み出した。やはり足にはなんの感触も与えられない、しかし進む事はできる。頭と肉体がその事実と矛盾についていけず、少し目眩がした。
どこを見ても何もない世界だ。最初は広いようにも思えたが、実はそうでもないのかもしれない。きっと、先程思った表現は間違いではなかったのだろう。ここには立体がない、空間を認識することができない。……「距離」が掴めない。自分が浮いているようにも、そうでないようにも思える。
ここは、一体何なんだ。こんなの、あの山ではもちろん、漫画や、絵本の中でだって見た事が無い。
そうしてどれくらい歩いたのか。この世界には怖いものは何にもなかった。そも、私以外のものが存在がしないのだ。闇も、お化けも、狼も、大蛇丸も。何にもいないのに。それでもここにずっといるのは気が引けた。
その理由は分かっていた。「おじさんがいないのなら、ここもあそこも同じだな」、私はひとり落胆しながらそう口にした。その時だった。
「――え?」
視線の先、映り込んだ小さな白い点。最初は見間違いかと思える程小さなものであったが、おそらく「距離」があるからだ。私以外の存在が生まれたことによって、この世界に「距離」が生まれた。それは次第に大きくなり、形をぐにゃぐにゃと変えている。
「あれは何だろう?」当然のように疑問を持った私は、無意識のうちにそこに向かって歩みを進めていた。
――誰かがいる。こちらに背を向けたまま、背景に溶け込みそうな程の不安定さで、そこに立っている。私は外国の絵本で出てきた蜃気楼のことを思い出していた。
それは、見覚えのあるシルエットをしていた。いや、見覚えのあるどころか、先程まで私が想像していた彼の姿にとてもよく似ている。不安から、心の内でもとめていた存在に、とても――。
「おじさん……!」
いつの間にか体は跳ねるように駆け出していた。先程まで窮屈に感じていた世界がどんどんと広がって行くのが分かる。青い世界に、色んな色をもったその人が現れた。髪の色、肌の色、彼のお気に入りのシャツの色……。ほんの僅かな違いが、私にとっては、この世界にとっては何より大きい。遠くにいるその人。けれどそれは間違いなく私の大好きなおじさんで。ぼけた瞳に映る小さなおじさんは、色が混ざり合って名前も分からない色だ。けれどそれすらもこの青い世界では輝いて見える。たった一週間、会っていなかっただけで、いや、一週間も会うことができなかったのだ。それまではずっと一緒にいたのだから、その穴はあまりにも大きすぎた。そして、それを再び目にした反動もまた然り。
次々となつかしいものが私の横を通り過ぎて行く。クレヨンに、絵本、おじさんの好きなインスタントラーメンに、熊の絵が描かれたお皿、白い布団ーーどんどんと世界に色が増えて行く。足は止めない。
これも大蛇丸が言っていたゲンジュツというものだろうか?……いや違う。あれは全てがよく似たにせものだった。けれど今、目の前にいるおじさんは、到底にせものであるとは思えなかった。だっておじさんが笑っている。こちらに向かって、笑って、手を振ってるんだもん!
近付く程に分かる、あれは私のよく知る、間抜けでふやけた笑顔そのものだ。間違いない!
「ずっと、ここにいたの?」
気付くとそこは、私とおじさんの家だった。畳の上に広がった、おじさんの荷物。脱ぎっぱなしの、私の上着。窓から見えるのは、家の屋根を覆う程の大きな木。ああ、それから、なつかしい匂いがする。週に一回は食べていたあのカレーライスの匂いだ。
おじさんからの返事は無い。彼はただ変わらぬ笑顔を浮かべて、私の頭をゆっくりと撫ぜた。でも……それだけでよかった。あんなにワガママだった私が、たったそれだけのことで満足してしまうほど、その手のぬくもりを何よりも求めていたらしい。
そして代わりに聞こえたのは、あの声だった。
『きみには、記憶がある……愛された記憶が……』
「あい、された……」
私には、愛された記憶がある?
「これが? そうなの?」
『そう、記憶……それは誰のものでもない、きみだけのもの』
「わたしと、おじさんがいた家が……いや、おじさんとわたしが……」
おじさんを見る。その瞳には、確かに私が映っている。おじさんの視界、私の視界。おじさんの世界が私の世界で、私の世界がおじさんの世界ーー?
次に瞬きをした後、そこにあったのは灰の床と壁……出来れば戻りたくはなかった、あの無機質な部屋だった。ああ、と小さく声を漏らす。後ろ髪を引かれる思いでたまらなくなったが、もう私は気付いてしまったのだ。
よくよく考えたら、おじさんが死……んでるかもしれないというのは、君麻呂がそう思っているというだけであって事実とは限らない。そんな証拠はどこにもないのだ。少なくとも、私がこの両目でその場面を見た訳ではない。
そうだ、おじさんは生きている。目を閉じて、おじさんの驚いた時の阿呆面を思い浮かべる。ほら見ろ!今も鮮明に、かつ正確に思い出せる。眼前に広がるのは、青い空、緑の木々。瞳を閉じた先は暗闇ではない。私が思えば、そこはいつもの家の中だ。
おじさんは、私の心の中で生きている?いやこれ漫画とかだと死んでるやつだけど。死んでない、絶対に死んでない。そう、瞼を閉じればあなたが~なんて歌もあったし、とあの春の日に思いを馳せた。昔はその歌詞の意味がよく分からなかったけど――今ならその意味が少し分かる。
「そっかぁ……そうだったのか……」
おじさんがいまどこにいるのかは分からない。でも確かに、私の中にもおじさんがいるのかもしれない。むつかしいことはよく分からないけれど、そう思えた。おじさんの、おじさんを構成する目には見えない成分の何%かが、私の中にもあるのだろう。もしかするとずっと一緒にいたから、同じ空気を吸って、同じものを食べていたから、いつのまにか私の中におじさんの一部が入り込んでしまったのかもしれない。……その様をイメージして、ちょっとだけ「それはそれで嫌だな」なんて思ったのは内緒である。
おじさんは生きている。私の中にも生きている。そう気付いた瞬間、この暗い部屋も幾分か明るくなったように思えた。
おじさんは、私に黙って勝手にいなくなったりなんてしない。いつも出かける時は何時に帰ってくるかを私に伝えていたんだから。それにおじさんは、寂しがりやの構ってちゃんだからな。寂しくて死んじゃうかもはしれないけれど、仮に、仮に何があっても絶対に「俺の屍を越えてゆけ」とか言うタイプじゃない。喧嘩が白熱して私が家出(半径数十メートル圏内)をした日もどこまでも追いかけてきたし、隠れんぼだってクソつまらないレベルですぐに見つけられてしまう。今思えばあれはおじさんが私から離れたくなかったからなんだろう。きっと。きっと、今も、私がいなくなって必死で、泣きながら探しているに違いない。その姿を想像するのもまた、面白いくらいに容易だった。
ふと気付けば先程までの涙はどこかに消えていて、口角がゆるりと上がっているのが自分でも分かった。
じゃあしょうがないな、私がおじさん迎えにいかなきゃあしょうがないな。
『……それでいい。信じ続けて、たどり着くまで、決して諦めてはいけない』
「え?」
『そして、忘れないで。これを、必ず――』
ああ、そういえば、何かを頼まれていたんだっけ。と他人ごとのように思う。でも結局よく分からず仕舞いだったはずだ。
……うん、別に悪いやつではなさそうだし、いいんだけど。お願い事するのなら、せめてちゃんと何をどうすればいいか教えてくれてから消えてくれ。
*
「……あの子が逃げ出そうとしたって? 元気なことね……もう回復したの?」
「ええ、まぁ……。ずっと死んだように大人しかったのですが……君麻呂曰く突然……。『泣いててもしょうがないのでとりあえずここから出ようと思った』などと供述していたらしく」
「物凄いガッツね」
「うーん、馬鹿なんじゃないでしょうか」
「馬鹿なんでしょうね」