(君麻呂視点)
「この子は、何なんですか」
うまく噛み砕けない感情が、口元で今も蠢いている。肩にある柔らかな重みが、その存在を強調した。
思いの外、それが顔に出ていたのだろうか。カブト先生は少しだけ面白そうに――何時もとは違う含みのある笑みを浮かべて――僕に小さく手招きした。年齢という点だけでみれば、彼はまだ僕と同じ「子供」に属する人間であるはずなのに、その皮の下には僕の数十倍もの知見が柘榴のようにひっしと詰まっているのだろうと窺い知ることが出来る。うっかりその様子をイメージしてしまって、自業自得ではあるが少しだけ気分が悪くなった。
「少し、傷が入ってしまったね」
少女の首元に触れながら、僕が怪我をした時と同じトーンで彼が呟くものだから。ふぅん、なるほどと。誰かに知られるはずもないのに、わざわざ驚いていないフリをするように心の内で呟く。その口ぶりからしてこの少女がただの「きまぐれ」で連れてこられた訳ではないらしいということだけは分かった。
「この子の名前はなまえというらしいよ」
「なまえ?」
その言葉を復唱しながら首を動かせば、ふっくらとした瞼が時折小さく震えているのが見える。その様子をしばらく観察していると、その向こうにある何の濁りも澱みも映さない、あのつるりとした目玉を思い出した。その憎らしい程の清々しさは、いつか一度だけ見た空の青さに似たものであったと記憶する。
「……大蛇丸様は、何のために、その……なまえを?」
「それはボクもまだ詳しくは知らないんだけどね、ほら、あの人は勿体ぶるのがお好きだから」
その割に自分が逆の立場になると怒るけど、とカブト先生は小さく付け足した。
「殺さないようにとは伝えたけれど、どうせ手加減するのなら、もうちょっと場所を選んで欲しかったかな。処理が面倒だ」
「……予想よりも、動きが遅くて。チャクラは少し……特殊ですけど、それを使おうとする気すら見えませんでした」
「確かに、筋肉のつき方から見ても、この子は忍びとしての訓練を受けていないように見える」
「なら、」
尚更、何故大蛇丸様はこの子をここに連れてきたのだろうか。僕の言わんとすることを察したのか、カブト先生はまたも微妙な顔で笑うだけだった。
“生きて”この場所に連れてこられるような人間ならば、何かしら普通とは異なる体質や技を持っているものだと思い込んでいた。大蛇丸さまの目に止まるくらいの、有象無象の中で一際浮く様な存在でないと、そうでなければいけないと……そう思いたい自分がいた。自分の白い手のひらに目を留める。ほんの少し意識するだけで、肌を裂いて僕の本体が顔を出す。
「もういいよ、君麻呂。君はもう休むといい」
その一言で、この瞬間の彼の興味が全て彼女に向いてしまったことを察した。
『屍骨脈』。これは僕だけの力、今となっては僕だけの血継限界だ。骨芽細胞や破骨細胞を自分の思うままに操ることが出来る、かぐや一族に伝わる能力。自らの骨の成分を分解、硬化など思いのままに改造することで自身の体を武器や盾へと変えることだって出来る、闘いにおいて非常に攻守に長けた能力であるといえるだろう。
「かぐや一族」は、この力をきっと愛でていたし、彼らが一族の仲間よりも信用していたのは、自分自身の骨だったのではないかとすら思う。愛でて愛でて、骨を揮っては赤く染めて、また愛でて。自分の力を誇示することでしか彼らはきっと満足できないのだろうと思った。彼らが戦う様子を見たのは、檻の中から出たあの時が最初で最後であったが、その一瞬の間で幼い自分にも容易に察することができた。同じ環境に僕もいたのなら、同じような価値観を持っていたのかもしれない。しかし幸か不幸か、僕の骨はそんな彼らのものよりも遥かに硬く、鋭いものであったのだ。
彼らはそんな僕の存在を認めなかった。物心ついた頃には、狭い檻の中にいた。何がきっかけだったのかはもう覚えてもいないし、そもそもそんなものはなかったという可能性も否定はできない。僕を見る瞳はどれも醜い感情を含めたものばかりで、僕の存在そのものが彼等にとっては許されざるものだったのだろう。
その時、彼らが「骨しか見ていない」ことに気付いたのだ。もしくは、そういう風に、「見えている」。僕のまだ小さい腕も、柔らかな肉も、流れる赤い血も、その中心にある心臓も見えないような、そんな節穴が二つついているのだと。
そんな一族の奴等が大嫌いだった。彼らと同じ血が流れていると思うだけで、吐き気がしたし、自身の肉の下にある骨の一つ一つが憎悪の対象でしかなかった。それだけではない。彼らの目玉を見るたびに、そこにいる同じ目を持った醜い子供が映り込む。覗けば覗くほどに暗く深くなっていく合わせ鏡。僕は自分が嫌いだった。
しかしあの日、奴等は無謀な争いに挑み、僕を残して勝手に滅んだ。ひとり露頭に迷っていたところを、僕は大蛇丸様に救われた。そして僕のこの醜い力を「必要」としてくれたのだ。誰も愛してくれなかったこの血を、僕の「中」を見てくれたはじめての人だった。
『きっと生きてる事に意味なんてないのよ。でも生き続ける事で、面白い事を見つけられるかもね。……あなたがその花を見つけたように、私があなたを見つけたように』
運命だと、思った。何故なら僕を見る大蛇丸様の目は、なんにも映さない、とてもきれいな金色をしていたから。
――それが、あの少女はどうだ。
あのまま橈骨か尺骨かを引き抜いて、今も肩の上でゆっくりと波打っているその心臓に突き刺したのなら、すぐに事切れてしまうような、小さな命。あの時、抵抗する素振りなど全く見せず(というよりは抵抗する術も力もなかったのだろう)、状況を理解した様子もなく呆気なく崩れ落ちていく様を見て、「ああ、この子は本当に何も知らないんだな」と。侮蔑に近い感情が沸き上がってきた。そうしてそれは今も喉のあたりでごろごろと音を立てて残留している。
この子の皮膚の下には、ただ赤い血が流れている。濁り気のない、たいそう綺麗な血が流れているだけだった。ただ、それだけ。ただそれだけなのに、何故彼女はここにいるのか。何故、大蛇丸様の目に止まったのか。僕には理解ができなかった。
*
自分が動かない限り、微かな音すら聞こえることはなかったこの部屋に、ぺたぺたといちいち張り付くような情けない音が響く。歩き方ひとつとっても人間性が出るとはよく言ったものだと思う。これはどう聞いても、頭にも胸の内にも、何にも詰まってない空っぽの人間の足音である。
「君麻呂の部屋も何にもないね」
「……また来たの」
「私のいるところも何にもないんだもん。暗いし、ちょっと寒いし、ベットは固いし……何より暇過ぎて死にそうだし」
いいじゃん、と勝手に人のベッドに座ったなまえ。その様子を見て、ひゅうんと音がしそうな程に気分が降下した。ここでそれだけ与えられてること自体が奇跡に近いのに、贅沢な子だ。
それにしても暇だからって、どうしてここに来るんだろうか?いや、これは考えるのも面倒な疑問である。しょうがなく、彼女がお尻で敷いているシーツを引っ張って、そのまま縁まで追いやってやろうと力を入れると、思いの外それはあまりに呆気なく――。「軽い」と思った時にはそこになまえはいなかった。
「……ひどい」
「え?」
僕が引っ張り上げたシーツから、なまえは綺麗に転がり落ちていた。石造りの床に頭を打ち付けたのか、それともその無骨な冷たさに肌が驚いたのかは分からないが、小さく肩を震わせて唸っている。……警戒感が、無さすぎではなかろうか。訝しげにじっと見つめる僕に気付いたのか、少しだけ眉を寄せた少女はわざとらしく咳払いをしてみせた。
なまえがここに来てからあっという間に一週間が過ぎた。大蛇丸様は、まだ帰って来ない。
彼女が目覚めてからの1日は、予め用意されていた――と、カブト先生は言っていた――部屋の中で随分と喧しく泣いていたようだった。その部屋には鍵をかけられることもなく、ましてや体も縄や鎖で縛られている様子もなく、待遇からして、彼女がただの捕虜ではないことを改めて思い知らされた。同時にこれから、毎日あの泣き声を背景に生活しないといけないのだろうかと考えると気分が滅入った。それだけではない。あの時の彼女の姿に、ちらりと過去の自分を思い出してしまったりもして……その日は上手く寝付けず散々な一日だったのを覚えている。
しかし、久方ぶりに憂鬱な気分で――爽快な気分の朝というのも殆どないが――起きた僕を待っていたのは、今のようにケロリとした顔のなまえだった。
まさか二日目でこうも、こんなにも早く、いや早さ以前に順応してしまうという可能性があったとは思いもしなかった。
また、なんとも都合のいいことに、僕に傷つけられたということすらも忘れてしまっているらしく、こうして彼女の暇つぶしに付き合わされている訳である。僕は理解した。そして彼女は理解していなかった。自分の今の現状を。そうして確信した。「ああ、この子は本当に何も知らないんだな」。
「今日も起きてからずっと探検してたんだけど、」
哀れみの視線を向けられていることにも気付く様子はなく、床に転がったまま姿でなまえは続けた。
「ここって窓のひとつもないよね。じめじめしてて、このままだと足からなめくじになりそう」
「……なんで足から?」
「なんとなく」
当然である。ここは地下なのだから。ここは大蛇丸様が作った蛇の穴。彼女の言う通り湿っぽく、暗い場所ではあるが、それでもあの場所に比べれば数十倍息がしやすい。
しかしいくら外に出ることも許されないとはいえ、それすらも分からないものだろうか。僕は普通の家の間取りがどういったものなのか、詳しくはないが、それでも、「ここが普通ではない」ということくらいはなんとなく感じとれそうなものだが。
「ねー聞いてる?」
泣いたり笑ったり怒ったりと忙しい奴だなと思いながらも、無視をしたらしたで対応がさらに面倒になるということは、この数日間で痛い程身に付いていた。なんだろう、人と話をするのってこんなに疲れるものだったか?普段カブト先生としか喋らないから余計にそう思ってしまうのかもしれない。あの人はとても聡明だから。
手をついて立ち上がったなまえは、再び僕の部屋を見渡した。
「ここ、本とかないのかな……漫画とか」
「……まんが? それは分からないけど……僕も本はひとつも持ってないよ。諦めなよ」
今度こそこれで、話は終わるものだと思っていたので「じゃあ君麻呂はいつもここで何してるの?」と、さらに続けてきた少女に今度は内で隠し通せない程度の苛立ちを感じた。結論から言うと、大蛇丸様やカブト先生からの命令がない限りは何もすることはない。以上。
「君麻呂、お外で遊ばないからそんなに真っ白なんだよ。そうに違いないよ。マッシロシロスケだもん、どこもかしこも」
「まっしろしろ……? 僕のこれは生まれつきだよ」
「えっ生まれたときからここにいるの!?
「違う……」
「だめだよ、このままじゃ。ねぇ、あの……ナントカ先生に言って一緒に外に出してもらおうよ、それがいいよ」
「無理だよ」
僕はともかく、君は外に出られないんだよ。思いのほか、低い声が出てしまったことに自分でも驚いた。そして、なまえはそんな僕よりも大きく目を開いて、固まっていた。
「無理ってどういうこと……そろそろおじさんに会いたい、家の布団で寝たいよ、私」
「それもきっと無理、だから……あきらめた方がいいよ。早いうちに」
と、言い切ったところで、襟元をぐいと引き寄せられた。その手を払おうと思え簡単に出来たし、それよりも早く鎖骨を突き出してその手を串刺しにすることだってできただろうに、僕は何故だか動けなかった。
「―ー家ではね、私がカーテンと窓を開ける役だったんだ」
「え?」
突然話が変わったことを疑問に思いつつも、相手が俯いていてはその真意を察することもむずかしかった。
「で、起きたらもう部屋中にいい匂いがするのね。おじさんがキッチンで朝ごはんを作ってくれてるんだ。そのあいだに私が、顔を洗ったり、髪を梳いたり、お箸の準備とか……したりしてさぁ」
つらつらと、なまえの口からこぼれ出てくる情景を、僕はひとつとしてうまく思い浮かべることができなかった。「いい匂いって、どんな匂いだろう」とぼうっと思いつつ、続く言葉を静かに待つ。
「朝に太陽が見えるのが、当たり前だって思ってたのに……。……ここは、カーテンどころか、窓のひとつも、ないんだもんな」
ここで、なまえの声にすこし震えが混じっていることに気付き、少し膝を曲げてその顔を覗き込んだ。青い目玉が水を湛えてその形を揺らめかせていた。
襟元を掴んでいた手が、そのまま僕の肩へと滑り、縋るように絡みつく。滅多に身体を人に触れられることはなかったからか、今度は反射で跳ね除けてしまった。少女の小さい手は、行き場を失くし不自然に浮いたまま。
「ねぇ、君麻呂。おじさんはどこ……?」
「……それずっと言ってるけど、おじさんって誰なの?」
「おじさんは私のおじさんだよ。そういえばおじさん、怪我してた。大蛇丸って人に、何かされて……!」
「……もうその人は、いないんじゃないかな」
「え?」
彼女の口が丸く開かれ、そこからぽろりと落ちたその言葉は、幾らか遅れて聞こえた。
「いないってどういうこと?」
「……もう、死んでるんじゃないかって、こと、だけど……」
言った後で、「しまった」とは思ったものの、同時に僕が彼女に気を遣う義理もないことに気付き、少し迷ったのちにそのまま続けることにいた。
「理由は分からないけど、君がここにいるのは大蛇丸様の計画のひとつだからに違いないよ。理由は、本当に分からないけど……」
「死んでるって……どういうこと」
「それは……」
さっき彼女は、おじさんが大蛇丸様に傷つけられた、と言っていた。きっと、その人はあの金の目に映してもらえるような人ではなかったのだろう。そして、大蛇丸様が邪魔な存在を生かしておくはずがない。
「きっと、必要なかったんだ。その人は。大蛇丸様にとって必要なのは……」
頭が悪そうなこの子に、残酷な世界を知らなさそうなこの子に、何といったら伝わるのだろう。今までだってろくに会話が成立しなかったというのに。実のところ、僕ははじめて出会った時から、目の前にいる少女が自分と同じ人間だとは到底思えなかったのだ。
はっきり、言ってあげた方がいいんだろう。それが優しさなのかどうかは、僕には分からない。
「……なまえ、大蛇丸様の計画を邪魔するモノは、必要がないんだよ」
「必要、ない……?」
「そう」
「そんな……そんなことない! 私にはおじさんが必要だ!!」
「――ッ!」
彼女の叫び声は、空気を切り裂くような風となって、音を立てて僕に襲い掛かった。――これは、何?そんなことを考えつつも、すでに体は動いていた。咄嗟に突き出した尺骨で、それらを割くようにして間一髪防ぎきる。通り過ぎた一部の風は、石の壁に爪のような傷跡をいくつも残していた。あまりにも、あっという間で、予想外の出来事だった。
ああ、彼女は本当に何も知らないんだ。石造りの床を染める水滴を見下ろしながら静かに思う。突出した自らの骨には、小さな傷が幾つか刻まれている。屍骨脈を――僕のプライドを傷つけられたのはこれが初めてだった。
そうしてようやく、僕はなまえに対する興味が生まれたことを知る。それは水底の岩の隙間から漏れた一粒の泡のよう。いや、もしくは沸騰したお湯のように。ふつりふつりと、湧き上がってくる気持ちがあった。
この子は、どんなところで暮らしていたのだろうか。少なくとも、格子上の景色など見ることは一度もなかっただろうし、憎しみのこもった目を向けられることも、誰かに殺されそうになったこともないのだろう。そんな彼女がこんなに求めてやまない「おじさん」とは、一体どんな姿をしていて、どんな目で彼女を見つめて、どんな声でその名を呼ぶのだろうか。
しばらくして、静かになった部屋の中、なまえは火がついたように泣き始めた。
「……泣きたいのはこっちの方だ」
なまえはなんにも知らない。しかしなまえには、愛された記憶がある――。骨身にまでそれが赤く赤く染み込んでしまっている。その事実を、僕はこくりと飲み込んだ。