カブト先生、と呼ばれたその人は椅子に座って何かをノートに書き込んでいる最中のようだった。私をここまで連れて来た少年とはちょっと違うが、彼もまた暗い部屋にうっそりと浮かびあがるような白い髪を後ろでひとつにまとめている。その少し丸まった背中から察するに、おじさんよりも体が小さい。つまり、若い?てっきり白い髪の人間はおじいさんやおばあさんだけだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
「ああ、君麻呂。……彼女が起きたんだね」
とても優しい声だったと思う。この部屋に来るまでの間も誰ともすれ違うことはなく、また隣で歩く少年とも一言も喋ることはないままであったから、より一層そういう風に聞こえたのかもしれなかった。いや、正確には喋りかけていたつもりだが、緊張のあまり声が小さかったのか聞こえていなかったらしい。おじさんならどんな声でも拾ってくれたのに、声が届かないのってとても悲しいと思い知らされた。
私が目覚めた部屋の倍程広く、灯りの数も多いのだが、部屋の奥の方は闇の幕が降りきっていて目を凝らしても全貌を見ることはできない。かろうじて視認できたものはどれもはじめて見る奇妙ものばかりだ。ぐにょっとした形の植物だとか、凹凸のある瓶の中で泡立つ液体だとか、興味をそそられるものばかりでつい手が伸びそうになっていた所で、彼が振り向く。そして散漫していた私の視線は、ある一点で止まる。
「めがね……」
「え?」
眼鏡だ。堀田ハリとゲレルの石の主人公ハリがつけてる奴だ。目が悪い人はこれをかけるのだとおじさんが言っていた。それを聞いた私はしばらく「絆創膏みたいなもの」かと勘違いし、絵本や漫画に出てくる隻眼の登場人物に片っ端から眼鏡を落書きして怒られたことを思い出した。かけたからって目が良くなる訳ではないらしいぞ!じゃあなんでこのお兄さんもハリも眼鏡かけてるんだよ……。ちなみにすごくどうでもいいことだが、ゲレルの石と秘密の部屋のどっちが一作目だったかをいつも忘れるんだよね。
眼鏡に感動している私を余所に、少年はすっと私を指差して口を開く。
「……この子、ずっと一人で喋ってて」
「……は?」
一人で……喋ってた……だと……?聞き捨てならない言葉に私は少年(キミマロだったか?)を思わず三度見した。
「え……え? ずっと喋りかけてたのに……む、無視してたの!?」
「……? そうだけど」
「そうだけどって、そうだけどって」
おじさんよりも遥かに綺麗な緑の瞳が、「それがどうしたのか」と言わんばかりに何度か瞬く。がくりと項垂れる私を見て、カブト先生とやらが笑う。それがなんだか恥ずかしくて、すぐにぴんと背筋を伸ばし再度彼に向き合った。
「こ、こんにちは」
「こんにちは……かな? あの部屋じゃあ分からなかっただろうけど、今は夜なんだ」
「えっ、じゃあこんばんは!」
「こんばんは」
元気だな、と彼は丸い眼鏡の奥で目を細めて笑う。だって元気だけが取り柄だからね。
そうか、今は夜なのか。とはいえ何度辺りを見渡してもその様をこの目に捉えることは出来ない。
夜に起きるというのはなんだか違和感がある。いや、違和感なんて言葉じゃ表しきれない程の異物が、ずっと前から私の周りに漂っている。それは隣にいる少年も、目の前にいる「カブト先生」もそうだ。夜に起きることも、起きてきてすぐに朝ご飯のいい匂いがしないということも、おじさんがここにいないのもそう。全てが私にとっては「異常なこと」なのである。
それを問うのは簡単なことであるはずだった。なのに、思うような形に口が動かないのは何故だろう。好きなおかずを最後に残しておく時のような……?いやそれとはちょっと違う気がするぞ。
「ここって、カブト……先生の家? すっごく大きいというか……長いけど」
「ははは、ボクの家じゃあないよ」
「えっ、じゃあ……キミマロの家?」
「……違う」
「ふぅん。誰の家だか知らないけど、こんな細くて暗~い家に住んでるなんて、ネズミみたいな人なんだろね」
「ネズミというよりは蛇かな、なんて。まぁ、確かにここが広いのも確かだけど……。実は君の眠っていた部屋への通路は、ボクが幻術を仕込んでたんだよね」
「へぇ~ゲンジュツ……ん?」
なんだろう。知らない言葉のはずなのに、つい最近聞いたような気がする。どこで聞いたんだっけか。と無い頭を巡らせてみても、私の知識は狭く浅い。そしてそのどれもが蜘蛛の巣のように無数に張り巡らされてはいても、大本はぜんぶぜんぶおじさんなのだ。となれば、きっとその言葉もおじさんが言っていたに違いないのである。
「君は大蛇丸様から拉致されたんだよ」
んん?
「らち?」
「そ、拉致」
「……って?」
「うーん……今の君に言っても多分、理解しようとも思わないだろうね。……そうだ、今度辞書をあげるから、自分で調べるといいよ」
「え、何かくれるの。やったぁ」
知らない人からものをもらっちゃいけないっておじさんに言われたことあるけれど、カブト先生はもう知ってる人だしその辺は問題ないだろう。(なお、この時の彼をぶん殴りたくなるのはもう少し先のことである。)
……ちょっとまって?……おろち、大蛇丸?
「ああ!?」
大蛇丸、幻術、その聞き慣れないはずなのにどこかひっかかる二つの単語に、頭の中で点滅していた電球がばちりと音を立てて光輝いた。
今まで、どこに隠れていたんだろう?と不思議になるほどの記憶が一気に頭の中へと雪崩れ込んできた。寝癖、卵焼き、地図、赤い線、白い蛇、破壊――。それを受け入れる程に、自分の身体から血の気が引いていくのを感じていた。今まで感じていた、目を逸らし続けていた“嫌な予感”が、実体を持って私にのしかかる。
「か、カブト先生……おじさんはどこ?」
「おじさん?」
震える声で恐る恐る尋ねる私を見つめる彼の瞳は、相も変わらず半月型に流れていた。
「ボクは知らないなぁ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ、僕は知らない……でも、大蛇丸様なら教えてくれるかもね?」
この人は、嘘を吐いている。
「……ところで、君はずっと眠っていたから、いい加減お腹空いただろう。先に朝食……いや夕食か。夕食にしよう」
こっちにおいで、と差し出された彼の手を私は――。
*
おじさんの部屋はこの家で一番広い。けれど床の至る所に彼の荷物が散乱していて、少し歩いただけで何かを踏みそうになる。おじさんは私の寝癖や言葉遣いの悪さを注意するけれど、部屋の掃除に関しては口を噤む。部屋の汚さは私よりもおじさんの方が遥かに上なのである。早速おじさんのパンツを踏んで気分が幾らか落ちた私はそれをそのまま足で蹴飛ばした。
部屋に一つしかない窓の外には、家全体を覆う程の大きな木がすぐ側に佇んでいて、まだ昼だというのにどこか薄暗い。他の部屋は全て畳なのに何故ここだけ板張りなんだろうかとどうでもいいことを今更疑問に思いつつ、音を立てないようにじわりじわりと移動する。裸足からひんやりとした感触が直に伝わり、少しだけ身震いした。やはり私は畳の方が好きだ。柔らかいし、匂いが落ち着くもの。
おじさんとのかくれんぼはまぁまぁ好きだった。そまぁまぁ、というのには理由がある。自分が鬼の時はまだいいのだが、おじさんが鬼の時はどこに隠れても絶対に見つけられてしまうからである。一度だっておじさんには勝てたことがない。それが私はどうしようもなくつまらなかった。
隠れていい範囲はこの山の中全て。昔は家の中だけでしていたのだが、私が大きくなるにつれて隠れられる場所もなくなり(おじさんも隠れられる場所が限られていたこともあり)、段々とその範囲が広がっていったのだ。それでも、おじさんが本気を出すと10分も経たずに見つかってしまうのである。
そこでこの日は、久しぶりに家の中に隠れてみようと、おじさんの部屋に隠れていた。所謂「トウダイモトクラシ」をしようと、そう内心ほくそ笑んでいたのだが。
「なまえ、見つけたぞ」
「……おじさん、本当はズルしてるでしょ?」
「……えぇ?」
難なく見つけられてしまった私はじとりと彼を睨んだ。絶対、何かあるんだ。大人だけの秘密というか、裏技的なものが。そうじゃなきゃ、1日一回は自分の荷物をどこに置いたのか家中うろうろしてるおじさんが私をこんなに早く見つけられるはずがないのである。
うっ、と声を濁らせたおじさんは少しだけ後ずさりする。そうしてしばらく考えるような仕草をしたのち、少しだけ眉を下げて、薄く笑った。
「……この間、チャクラっていうエネルギーのことを教えたよな?」
「チャクラ? あー……身体エネルギーとか精神エネルギーとかなんかそういうのだっけ」
「そうそう」
おじさんは近くにある本棚から、何やら難しそうな本を取り出した。表紙には変なポーズをしているのっぺらぼうな人間のイラストが大きく載っていた。
「チャクラの性質は人それぞれ、少しずつ違うんだよ。性質変化とかそういう意味ではなくて、こう、人によって若干肌の色が違うとか声が違うとかそういうレベルで……? 何て言ったら良いのかな……」
「性質変化って何?」
「ごめんそこはまだ気にしなくていい、お前は。……うーん、チャクラを使えるようになると同時に、チャクラを感知できるようにもなるんだよ。その範囲は実力や生まれつきの才能でまた人それぞれだけど」
全く分からないと首を曲げる私に、おじさんはああでもないこうでもないと一人でぶつぶつと呟き始める。どうやら分かりやすい説明の仕方を考えているようだと知った私は静かに彼を待っていた。
「あーつまり、チャクラを持ってる人間がラーメンだとする。なまえもラーメンだ、おめでとう」
「私がラーメン」
「で、中でもお前は味噌ラーメンだ!」
「私は味噌ラーメン……?」
「そして俺はラーメンの中でも味噌ラーメンの匂いを辿ってお前を見つける」
「私、味噌ラーメン臭いの……?」
「だめだ、この説明じゃだめだ。大丈夫、なまえは臭くないからそんな傷付いたって顔をするな、俺が悪かった」
俺は教師に向いてないな、と照れ笑いしていたおじさんの顔を私は今もまだ覚えている。その日の夕食は味噌ラーメンだったことも。
かくれんぼはまぁまぁ好きだった。でもそれは相手がおじさんだったからである。それ以外の人とのかくれんぼなんて、よくよく考える程、魅力のないものだと思える。
カブト先生の手を、私は弾きとばした。その時は怖くて顔も上げられず……しかし周りの空気がすこしだけ冷たくなったことだけは確かに分かった。何か、彼が言葉を紡ぐ前にと身を翻して私は駆け出した。そうして後先考えず、再び出口もわからない暗く細い迷路に逆戻り。相変わらず時間の感覚が分からないこの場所で、どれくらいあそこから離れることが出来たのか。
大丈夫、大丈夫。見つけられたくなくてもおじさんは絶対に私を見つけてくれたんだから。絶対今日は遊ぶの面倒臭かったんだなって時はその「チャクラ」を使って開始五分で見つけてくる大人の屑だから。大丈夫、大丈夫……。
そう自分に言い聞かせるようにして、私は一人暗闇の中で縮こまる。見下ろすと自分の足下も見えない程の闇がそこにあり、わたしにぴたりと張り付いて離れない。おじさんが見つけてくれないのなら、いっそこのまま闇に溶けてしまいたいとすら思った。
「なにをしてるの」
凛とした声が、上から降ってきて私は体の力が無条件に抜けていくのを感じた。それは諦めに近い感情だった。
「君のチャクラはもう覚えた。君がどこに逃げようとも、大蛇丸様が、僕が君を見つける」
「……チャクラ」
「君のチャクラは……少し特殊だ。そこが大蛇丸様に気に入られた理由? 幻術も知らない、無知で変わった子だとは思っていたけれど」
ちりちりという不思議な音に顔を上げる。そうして目を見開いた。少年の手のひらから、白い何かが飛び出している。
「無知……」
私の世界は、私が思っていた以上に狭かった。その言葉を静かに飲み込んだ。