朝を越えたら夜だった

 帰ろう。目を開けて数秒、浮かんできたのはその三文字だった。

「どこここ?!」

 ゲシュタルト崩壊しそうな声を上げつつ、布団を蹴り飛ばして起き上がる。正直寝起きは良い方ではないはずだが、いつもと違う天井を見た瞬間にそんなもの、布団と一緒に遠いどこかに吹っ飛んでしまった。とはいえ、目が覚めてしまったのは身体だけで頭の中はまだ新しく1日を始める準備が出来ていない。理解が追いつかないのである。いや、本当、どこなのここ。そもそも私、寝る前までどこで何してたんだっけ。
 見たところ窓もないこの部屋には、小さな燭台がひとつ壁にかかっているだけでそれ以外の灯りはない。その唯一の灯りすら、もう限界と言わんばかりにその身ゆらゆらと震わせている。「待って消えないでわたしを一人にしないでぇ!」なんて、漫画によく出てくる堕ちたヒロインのライバルみたいなセリフを、まさか人生初で“蝋燭”に向かって言うだなんて思いもしなかったぞ。その割にあの野郎意外と命もってるから私恥ずかしい人以外の何者でもないんだけどな。そこは空気読んで消えようよ。むしろ私が今ここでその息の根を……嘘嘘冗談やっぱり消えないで、空気吸って長生きして。
 そもそも今は朝なのだろうか、それとも昼?いやもしかすると夜かもしれない。仄暗い部屋の中を目を凝らし見渡しても、時計らしい形も見当たらないし、その針の音さえも聞こえない。これでは迂闊に「おはよう」なんて言えやしない。言う相手も、見当たらないけれど。
 ふと手に触れる薄い布地の感触を思い出し、私は視線を落とす。白いシーツが手に滲んだ汗のせいで手のひらにくっついているのが鬱陶しい。少し体を傾けると、ぎしり、と何かが軋む音がした。そこでようやく気付いたが、今わたしがいるのは、……ベッドだ!絵本でお姫様が寝ているあの……ベッドである!いや、絵本で見るよりは幾分か汚いけれど、これが、あのベッドなのか!へぇえこれが、ふん。布団を一々敷かなくてもいいだとか、夢を見た主人公はこれから落ちて起きることが多いとかいう、あれでしょう?……私も一回ベッドから落ちておこうかな……主人公になりたいしな、と一瞬血迷ったが、ベッドの下を覗き込むと思いの外高さがあるようだ。足を投げ出してみても地面に触れられない程に、である。うん。やめよう。絶対痛い。
 その昔、おじさんにベッドがほしいと駄々を捏ねまくった時のことを思い出した。それは最終的に喧嘩に発展し、おじさん対抗するため、プロレス本を参考にモンゴリアンチョップをかましてブチ切れられたことは今も覚えている。我ながら最低だったなと今になって思う。許しておじさん。「モンゴリアンチョップは誰でも簡単にできる割には、うまくいってしまうと脳みそブルブルで済まないから子供は真似しないでね!」と小さく書いてたことに後から気づいたんだもんよ。それ以降、我が家においてモンゴリアンチョップは「禁術」となった。
 あ、そういえばおじさん。おじさんはどこだろう。ものすごくベッドのついでに思い出しました感があるけどこれは気のせいである。よいしょ、と腰からずり落ちるようにしてゆっくり足を下ろす。固くひんやりとした地面に触れ、一度だけ体が震えた。
 改めて今いる部屋を見渡してみるが、やはり何にもない。見たところ、前方の壁にぽかりと一つ空いた四角い穴が、部屋の出口のようではある。歩く度にしとりしとりと、足裏が吸い付くような感覚を不快に思いながらも近付いてみると、その穴の奥は僅かな灯りがいくつかぼんやりと揺れているだけで、やはり暗い通路がずっと先まで続いている。なんてでかい家なんだ、と私は素直に驚愕したし、そのくせ人の気配が全く感じられないのが不気味だとも思った。とはいえこのままこの部屋でじっとしていると何だか怖いものを頭の中で生み出してしまいそうで、私は更に先へと足を進めた。
 まずはおじさんを探そう。何か面白い発見があるかもしれないしね!

 などと、ろくに出来もしないウィンクをキメてそんな独り言を言っていたのが……何分前だろう。あれからもうどれくらい歩いたのだろうか。歩いても歩いても同じような壁と地面が続くせいで時間の感覚が分からない。裸足だということもあり、そろそろ足も限界を迎えている。繰り返し過ぎ去っていった燭台も数知れず、たまに後を振り向いては、やはり同じように続く面白みも無い道にため息を吐くのだった。
 なんだこの冒険、クソつまらない。だって景色が全く変わらないんだもんよ。もっとこう、敵とか出てこないもんかなぁ、桃太郎でいう鬼とか、浦島太郎でいういじめられてる亀みたいなさ。亀は敵じゃねぇな。そう思いながら、寝癖でぐしゃぐしゃになっている頭を掻く。そもそも、鬼は怖いし亀は対応に困るから、出来ればスライムみたいな……弱そうかつ倒されるためだけに存在している罪悪感を抱く必要性が無きに等しいやつがいい。我が儘は言わない。如何にも低予算で作りましたァ!っていう感じの張りぼてのスライムでもいいから、私のこの爆発しそうなストレスと不安をふっとばしてくれるような……。怖過ぎず強過ぎないヌルい感じのモンスター出てこないかな、なんて。

 

 そんなくだらないことを考えていたのがいけなかったのだろうか。
 私の軽く地面を叩く様な足音とは明らかに違う、こつこつとはっきりした別の足音が暗闇の向こうから聞こえてくる。私以外の何か、誰かがそこにいる?まさか、本当に来るなんて。あれほど誰かに遭遇することを期待していたにも関わらず、実際その状況に陥ってみれば期待よりも遥か上から落ちてきた不安がそれを潰す。ごくり、と自らが生唾を飲む音がしんとした通路に響き渡ったような錯覚さえ覚えた。その足音の存在を確かめようとして自然と歩みを止めていたこともあり、尚更大きく聞こえたのかもしれなかった。

 私からしてみれば、正直それが鬼だろうとスライムだろうと同じことなのだ。おじさんか、おじさんじゃないか。それだけが問題。――そう思っていた。

 ぼうっとした一際明るい白光が天井を照らす。緩やかなカーブを描いた道の先、白い装束を身にまとった少年がランプを手にひっそりと立っていた。白いのは服だけでなかった。髪も、肌も、すべてが白い。私はその妖しい白さに見惚れ、しばらくの間、だらしもなく口が開きっぱなしであることにも気づかなかった。そんな私を、少年は怪訝そうに見ている。
 彼は不思議な程に自然に、それこそ溶け込むようにモノトーンの世界に馴染んでいた。まるで白黒の――おじさんが読んでくれた小説の挿絵のように突然、しかし違和感なくこの視界に入り込んできたものだから、私は人生で三度目の“未確認生命物体”との遭遇を果たしたのかと思った。でも、違う。私は無意識のうちに爪が刺さるほどに強く、両の手を握りしめていた。
 いつか出会ったような夢か現実かも分からない不確かな存在ではない。少年にはちゃんと足も、そこから伸びる薄い影もちゃんと地面に生えている。分かるのだ。だからこそこうして、“今までとはまた違う”感覚に私は震えが止まらないのである。

「あ、あ」

 はじめて男の子に会った。はじめて、自分と同じくらいの歳の子に出会った。はじめてーー。私の頭の中にある言葉をかき集めても言い表せないような感情、喜びでもない、興奮でもない、しかし気分を高揚させる何かが胸のあたりからぶくぶくと湧き出てくるようであった。しかし、オカシなことにその気持ちをそのまんま口から吐き出す、たったそれだけのことがとてもむつかしく、魚のように口を開閉させるだけ。
 何を喋ったらいいんだろう。何を喋ったら、彼は私に言葉を返してくれるだろうか。おじさんといた時にはそんな心配したことも、考えたこともなかったというのに、どうして。しかもこんな絵本にも出てこないような、真っ白で変な子。……「おじさんを知らない?」とか「ここはどこ?」とか言えばいかな?……いいや今だけはそんなことよりも何か、もっと言うべきことがあるはずである。早く何か言わなければ、彼は私を置いてそのまま闇の奥に消えてしまうのではないだろうか。そんな焦る気持ちとは裏腹に頭を駆け抜けていく幾つもの言葉達。
 だって、第一声だよ?人間、第一印象が何よりも重要だって、おじさんの持っていた本に書いてあったもんよ。例文で載っていた「雑魚だったろ、相手」とかいう台詞を第一声として放つ度胸は私には無いし、明らかにそういう状況でもないけれど……。(っていうかあの例文本当に何だったんだろう。第一声でそんなこと言う必要のあるシチュエーションとは?) でも、せっかくなら、見栄を張ってでも漫画の主人公みたいに、かっこいいこと言いたいじゃん。彼等のように、たった一言で相手を惹き付けられたなら、どんなに素敵なことだろう。――本ばかり読んできた私は、それ故に言葉の力は何よりも偉大であると信じていた。だからきっと、一言で全てを変えることも出来るのだと、思っていた。でも実際は言葉も、それを受け取る人の心も、そんなに単純なものではないということを、この時の私はまだ知らなかったのだ。

 ――ああ、もう。
 ふと、こうして少年と見つめ合ってから何分が経ったのかなどという疑問に今更ながらブチ当たる。もしかしたら何時間?それとも実はたったの数秒とか?人間、テンパっている時ほど、無駄に頭が回るものである。どれだけの時間だったのか―時計も無い今確かめることもできないが―それでもその間、彼は律儀に私を待ってくれていたようだ。
 このままではいけない、そう思った時だった。

『いいかぁなまえ。忍者にとって挨拶はものすっごく大事なことなんだ』

 ふと思い出す、遠い記憶。おじさんの視線をかいくぐった寝起きの私が、「おはよう」も言わず出来立てのパンに齧りつく度にそう怒られたものだ。おじさんは昔からやたらとニンジャが好きらしく、その単語は本棚でもよく目にしていた。

『いいや、忍者以前に人間として挨拶は基本! おはようといえばおはよう、ただいまといえばおかえり。挨拶とは本能レベルで行うべき礼儀! それが例え敵であってもやられたら倍返しするのがルール! 眠気を吹っ飛ばすくらい、いや、相手を吹っ飛ばすくらいの大きな声で返してやるんだ!』
『おじさんは今日も朝から元気だね』
『怒ってんだよ……』
『ごめんごめん、でもお腹減ってたんだもん』
『だもんじゃないの。……挨拶なんて、って思うかもしれないけどな……寂しいだろ。おはようって言って誰も返してくれなかったら。だから相手の気持ちを踏みにじらないためにも、挨拶をされたらちゃんと返すこと。それが誰であっても』
『……言う相手おじさんしかいないし』
『今は……そう、かもしれないけどな……。でも言わなきゃ、こっちから先制打たなきゃ、誰も返してくれないぞ』

 ……挨拶は、基本。

『あ、いただきますも忘れんなよ』

 続けておじさんの、あの間抜けな笑顔がぽかんと浮かんできて、つい、わたしは……わたし、は。

「……お、おはよう!!」

 爆発するように、叫んだ。きん、と石の壁に反響した声は自分でも笑ってしまうほど変に上擦っていて、とても情けないものであった。しかし不思議なことに何時間?何分?と悩み続けたことがまるで嘘のように、とても晴れやかな気分だった。おじさん以外におはようだなんて、始めて口にしたぞ。
 勢いのままに飛んで行ったこの声は、ちゃんと彼に届いただろうか。どくどくと高鳴る胸の音をバックに、私はただ、彼のその白く薄い唇が少しでも動くのを見逃さないように、じっと見つめていた。

 

「……おはよう?」

 首を傾げながらもそう応えてくれた少年の声を、私はきっと忘れない。