だれかの殻を探してた

 
「おじさん、見て! 私さ、地図を描いたんだよ!」

 いつか見た光景が眼前に広がっていた。私と、床に広げた地図を見下ろして、その人が微笑んでいる。本当は逆光で上手くその表情は読めなかったけれど、きっと笑っている。そんな温かな気配がした。
 私は出来立ての地図を見せびらかすために軽く弾くように指で叩いた。クレヨンで力いっぱい殴り描きした地図からは、ざらざらと、しかしどこか滑る感触が指の腹から伝わり少しむず痒い。

「ここが私とおじさんの家で……。ここがリス達の住処でしょ。そうそう、ここでリスをおちょくってたら指をひっかかれたんだよなぁ。あーれは痛かったね~ははっ」

 ひとつひとつ、黄色に茶色、緑と……自らが刻んだカラフルな印を指で追っていく度にその場所であったことをぼんやりと思い出すことが出来た。その人は未だに何も喋ることはなかったが、私は構わず続けた。沈黙こそが私にとっての恐怖だった。そういえば、さっきまで何をしていたんだっけ、なんてことを頭の片隅で思いながら。

「それで、ここが……」

 そうして、最後の印に指を滑らせたときに、指の動きとともにぴっと赤い線が地図の上を走った。視界を割るかのように一直線に伸びたその線に私は動きを止めた。赤色なんて、私は使っていただろうか。そんなことを考えている間にも、まるでトマトを潰した時のように、指の下から赤色が滲み拡がって往く様が見える。指の先から冷えていくような感覚がして小さく身震いした。意を決して地図から指を離してくるりとこちらに向けてみるが、おかしなことに―力強く指を紙に押し付けていたためか仄かに赤くはなっていたが―別段変わった様子はない。
 そうしてしばらく自分の指とその赤色をぼうっと眺めていたが、ふと、後ろにあったはずの気配が感じられなくなったことに気付き、私は恐る恐る振り抜いた。

『この地図の外には何があるの? この山の外には何があるの?』
「おじ……さん?」

 しかしそこにはまだ何かがいた。聞き取りにくい、くぐもった声で私に何かを問いかけている。その姿を上から下までよく見れば、少なくとも“おじさんではなくなった”ことだけは分かる。というより、誰でもない。だって顔がないんだもんよ。これは夢じゃなかろうか。

「誰だ、お前」

 そう問いかけながら、私はいつか見たあの青い目を私は思い出していた。といっても見た目や纏う雰囲気は全く違うのだが、あの時と同じような未確認生命体との遭遇、不可思議な体験をしている、という客観的な思考だけがすとんと落ちてきた。特に違うのは目である。そもそも目すら見当たらないこの存在からは、何の感情も読み取ることも出来ない。人形を相手にしている気分に近い、からだろうか。それがまた、あの時とは違った恐怖を感じさせる。

『あなたはどうしてここにいるの』
「知らないよ」
『あなたはずっとここで生きていくつもり?』
「し、知らないってば。おじさんに聞いたらいいじゃん……」

 その誰かが私に絶えず問いかけている。そもそもお前は何なんだよと、おじさんはどこに行ったんだと。否、どこにやったのかと問いかけてみても、私自身が言葉を発声したという実感がなかった。石を壁に向かって投げた時のように、ぼとりとその壁に沿って落ちるような、そんな感覚。しかし向こうの声は、不明瞭ではあるがこちらに届いている。
 何なんだお前は。おじさんはどこに行ったの、と再度震える声で問いかけてみても、やはりその人は何も答えてくれなかった。あまりに一方的な会話。まずは自分の質問に答えろということだろうか。しかし、私もその答えを知らないのだからしょうがないだろう。
 確かに、外の世界を夢見たことは何度もある。絵本の中の海賊や、勇者のような冒険をしたいと願ったことも何度だってある。いや……本当は、いつだってそう願っていた。あの地図だって、きっとパズルのピースのほんのひとかけらに過ぎないのだろうということは、とうの昔に気付いていたのだ。おじさんが「外」から持ち込んでいた、食べ物や絵本を私はいつも口にして、目にしていたのだから。
 それでも私の世界はおじさんといるこの場所だった。例えその外側があるとしても。私の知識はおじさんとその周りにあるものだった。おじさんが教えてくれないことを、私はなんにも知らないのである。どこか空しい気持ちが頭をもたげるのを感じながら、一人肩を落とす。

『あなたは行かなければならないの』
「……どこに?」

 ――これをあの子に届けておくれ。ずっと心の奥にひっかかったままの言葉が有る。何で、今思い出したんだろうか。胸のあたりが、霧がかかったようにもやっとして、気持ち悪い。

『あなたは知らなくてはいけないの』
「何を?」

 そんな間も絶えず続く、要領を得ない質問に苛立ちすら感じ始めていた頃、相手はふっとその腕をあげて私の後を指差した。流れるようにその方向――自らが描いた地図に再度目を向けて、私は戦慄した。いつのまにか地図からもはみだした赤は、地図そのものをを浸すほどに深く床に広がり、私の足下にまでその手を伸ばしていた。そして、その横に誰かが、倒れているのである。
 おじさん。唇の動きと声が分離されたような感覚がした。どれだけ唇を動かしても、声が伴わないのだ。喉の震えは、別のところからきたのだろうか。自分が自分ではなくなったかのように、指の震えを止めることができない。全ての指が、全ての骨がそれぞれに意思を持ち出したように暴れ出す。
 呆然とする私の横に、いつの間にか彼は立っていた。

「死んではいないわ。彼も幻術にかかっているだけ」
「大蛇、丸……」
「礼儀がなっていないわね。目上の存在を呼び捨てにするなんて……ああ、そんな機会もなかったのかしら?」
「……大蛇丸様」

 良い子ね、と彼はたいして抑揚もない声で言うとその白い手で私の頭を撫でた。おじさん以外の人間に初めて触れられた。しかし、おじさんの時ほど嬉しくないのはどうしてだろう。

「げんじゅつって何……? おじさん、大丈夫ってこと? 大蛇丸様は……おじさんを治せるの?」
「貴女、欲張りね。質問が多過ぎるわ」

 だって、何も知らないんだもんよ。それより早くおじさんを起こしてよ。

「これは幻術よ。本当の世界では無いわ。アシベにはまた別の幻術をかけているだけ。私は貴女と二人きりでお話がしたかったのよ」
「……なんで、私と?」
「それもいずれ私が教えてあげる。全て……とはまだ言えないけれど」
「おじさんは助かるの?」

 震える声で尋ねる私に、さぁどうかしら、などと他人事のように言う彼の言うことを完全に信用出来るはずもなかった。

「正直アシベはこの際どうでもいいのだけど……。……そうね、貴女が私のお願いをひとつ聞いてくれるなら、私も貴女の願いを叶えてあげてもいいわよ」

 床で倒れているおじさんは、ぴくりとも動く気配がない。それどころか未だに広がり続ける赤色に比例するかのように募る不安が私を圧し潰そうとする。大蛇丸とおじさんの関係は知らないが、私にとってはどうでもよくなんてないのだ。
 そんな私を知ってか知らずか、ほとんど赤くなってしまった地図を見下ろしながら、大蛇丸は尚も愉快そうに続ける。

「とても小さな地図ね。そして狭い家……」
「……でも私は好きだよ、この家」
「本当に?」
「本当だよ、嘘なんて言わないよ」
「そう。じゃあ、外の世界へ行きたいと思ったことは?」
「そりゃ…………ある、けど」

 おかしい。本当はこんなこと“言っちゃいけない”のに、口から出ていた。彼の言葉が、私の心を引きずり出しているのだろうか?
 何故、私は外に行ってはいけないのだろうと考えることがある。実際、おじさんに問いただしたことは何度もあるし、家出を試みたことも、そのまま喧嘩に発展したことだってあった。そうして最後は自主的に、時には強制的にいつもの家に戻るのだ。それは何故かと言われたら、私自身おじさんやこの家が大好きだから?確かにそれも事実であるけれど――何より、私が外の話をする時のおじさんがとても辛そうな顔をしていたから、かもしれない。何だか私の身体中が痛むような、そんな感じがして、もうこの顔は見たくないなとその度に思うのだ。どうにも、私はあの目に弱いらしい。

「でも私、馬鹿だからさ……少ししたら、また……」
「探究心を抑えることはないわ」

 思わず、顔を上げた。この気持ちは、探究心と言うのか。言葉とは不思議なもので、口に出して直接そう言われると幾分か気持ちが楽になったような気がした。彼には全てお見通しなのだろうか。我ながら何度も同じことを繰り返して馬鹿みたいだと、そして何度もおじさんを傷つけて最低だと思っていた。だからこそ必死に抑え込もうとしていたものを、はじめて人に認めてもらえた。それが良いものなのか悪いものなのかは未だにわからないが、ようやく自分でもその存在を認めることが出来るのだろうか。認めてもいいのだろうか。
 私の世界は、彼の言うように小さく、狭いものなのだろう。絵本の主人公達ような冒険も、旅も、恋も、戦いもない。本の外側からその様を見ている、私のこの世界は彼等からしたらとてもぬるく、つまらない世界なんだろうなって、思っていた。でも、それで良いんだと思う気持ちも確かにあるのだ。おじさんと一緒にいたいと思う気持ちは嘘ではない。大蛇丸が言うように、私は欲張りだ。

「何かを知り、得るためには……新しく生まれるためには、今まであった何かを捨てなければいけない。破壊しなければいけない。そうでもしなければ今いる場所から動くことなんてできない……。そう……鳥が卵の殻を破るように……蛇が脱皮を繰り返すように。創造と破壊は表裏一体なのよ」
「……よくわかんない」
「そうね。貴女はまだ小さいから。殻の存在さえも自分で気付けない子供。その中でも、特に拙い愚かな子……」

 彼の言っていることは難しくてよくわからなかったが、もし本当にそうだとして――私は、そのために今までの自分を捨てられるのだろうか?

「貴女はいずれ外の世界を知る。貴女の、未だ狭く小さいその想像の世界をも遥かに超えた世界を見る」
「……ごはんも?」

 そういえば、おじさんのおにぎりはもうとう冷えてしまっているだろうな、なんてことを考えて私はなんだかものすごく、かなしくなった。

「……そうね。私ですら食べたことが無いものもあるでしょうね」

 いつか、私は外の世界へと出て、色んなものを見る。色んな料理を食べる。そう大蛇丸は続ける。彼の言う世界がどんなに広いものか、確かに私には想像もつかない。外には色んな人がいて、色んな物があって、見たことも無い形や色をした動物がいるのだろう。そしてきっと、おじさんの作るどんな料理よりも美味しいものも、そこにはあるのだろう。

「……でも私、おじさんの料理が一番好きだからなぁ」
「それしか食べたことが無いからよ」

 彼は赤い舌を出して笑う。そうかもしれない。でも本当にそうなのかな?だとしたら少し嫌だなと思った。

「何事にも未知の世界はあるわ。そして……何にでも限りはあると私は思っているの」
「……世界の果てもある?」
「ええ、きっと。こんな地図よりも、遥かに広い世界があるわ……それが貴女の夢?」
「夢? ……そうなのかな、わかんない」
「わからないことだらけね。その夢、私は嫌いじゃないわよ」

 彼の瞳はぎらぎらと燃えていた。有り余る自信が彼の中で熱をあげているのだろうか。それは私からすればとても珍しく、そして綺麗なものだった。初めて火に触れた時のように、好奇心に従うままに目を凝らすと、その金の瞳の中で見知らぬ子供が燃えている。
 今ふと気付いたけれど、私、赤色って嫌いだ。

 

*

 

「それにしても……大蛇丸様がわざわざ出向かずとも、僕や他の者に任せてくださればよろしかったのに」
「いいのよ、自分の目で確かめたかったから」
「……それで、彼女は?」
「見た目以外はあの子とは似ても似つかない、ただの夢見る愚盲な少女」

 大蛇丸様が攫ってきたという少女は静かに眠っている。質素な寝台に横たわるその姿も同じように質素で、ベッドが大きく見えるほどに体は小さい。ただ遺伝的に身長がないだけかもしれないが、それを抜きにしても同じ年頃の子供よりも僅かに発育は遅いように思える。

「でも私には確信がある。私が信じたくはない、確証もない――勘のようなものではあるけれど……それも今日まで、これからはいくらでも確かめる時間があるわ」
「では……」
「貴方達には、死なない程度の世話をよろしく頼むわね」

 あくまでも、実験対象としてしか見ていないことも、その役目が僕に回ってくるであろうことも大方予想はついていた。
 再度その少女を見る。不思議なもので、目を閉じたその状態でも快活そうな性格が全身から滲み出ていた。……これから苦労しそうだな。

「新たに生まれるためには、一つの世界を破壊しなければならない……ね」

 白い手が彼女の頬に触れる。その手つきこそ端から見れば優しいものではあったが、彼が静かに舌舐めずりをしたのを僕は見逃さなかった。

「……? 何の話でしょう」
「あの子がよく言ってたのよ。そうね……おかえりなさい、とでもいうべきなのかしら……みょうじ」

 ああ、こうして少女の夢は蛇に丸呑みされてしまうのだろうか?などと、健やかに波打つその小さな体を横目に、僕は一人、喜劇でも見ているような気分に浸っていた。