ぬるい風が吹いていた

 おじさんの朝は早い。「最近は家を空けてしまう日が多くてさ」。そう言って、無骨な手でおにぎりを握りはじめた。中に詰めるのは私が大好きな昆布と梅干し。特に梅干しは彼自身が漬けた自慢の素材だという。「やっぱり一番うれしいのは、なまえが美味しそうに食べてくれることだな。練習してよかったなと」。照れくさそうに笑いながらもその手は止まらず、ひとつ、またひとつと皿の上におにぎりが増えていく。彼の料理はレパートリーが少ない。しかし、一週間のうちに必ず一度は作るという炒飯とカレーライスには、市販にも負けない自信があるという。「一番の悩みねぇ。あいつの寝相かな。たまに部屋越えてくるから」、それは流石に嘘だろうと思いたいが、そう語るおじさんの目の下には深い隈が出来ていた。

「……もうこれ止めようぜ? すごく恥ずかしいんだけど」
「おじさんを職人に仕立てあげてるんだよ」
「別に仕立てあげなくていいから。珍しく早起きしたならナレーション止めて少しは手伝えよ」
「はーい」

 楽しかったのにな、と少しだけ心の内で不満を零しつつおじさんの側に駆け寄る。とはいえ一畳程の小さな台所だ。おじさん一人が立つだけでいっぱいいっぱいになってしまうため、下手に動けない。しょうがないので、部屋中に漂う匂いから察して、先にほくほくと出来上がっているであろう卵焼きを配膳するためにお盆を掴んだ。その瞬間、まずはそのひどい顔を洗うように、と背中を向けたままのおじさんに釘を刺された。そろそろおじさんの背中には第三の目がある説が実証されつつある。
 洗面所まで走って、鏡と朝のご挨拶。自分で予想していたよりもその現状は悲惨で、顔以前に頭が爆心地の中心にいた人のようなそれになっていた。いやそんな人見たことないっていうか、生きて帰ってこれる人がいるはずないので、あくまでもそういう表現なんだけど。しかしこれ水で治るのか?ある程度は櫛で収まったが、それでもまだ見れたものではない。と、顎に手を当てて鏡とにらめっこしていると、枕の跡が口元に残っていることにも気付いてしまった。
 普通ならここでドライヤーやアイロンといった文明の利器を使うらしいが、いつも寝癖みたいな頭をしてるおじさんがそんなもの持っているはずがない。本人は天然パーマだと言い張っているがあれは寝癖だ。いくら山奥に住んでるからってそんな文化が遅れるものだろうか。原始人でもあるまいしなんてことを思いつつ、私も名前を知っているだけで実際使ったことも見たこともないんだけどな。自分のことは棚に上げるの術。
 ピッピッと水を塗りつけてから、後は念を込めて髪を留める。いや、ハンター試験に受かった覚えもない私が念能力なんて使えるはずがないので、代わりにチャクラを込めてみた。昨日おじさんの部屋で漫画読んだ影響だこれ。すぐに影響受けるから私。なんて……実を言うと念どころかチャクラもふわっとした感じでしか知らないのだがそこは置いといて。少しの期待とともに髪を押さえていた手を離す。――駄目だ。髪がさらに広がり、元の状態よりも酷くなっていた。地の文でふわっととか言ったからかなぁこれ。縦横無尽に跳ね回る髪をひとつまみしてから顔を覆う。これではまるで下敷きで頭を擦って髪を立てた時のような――っていうかこれもしかしてチャクラじゃなくてただの静電……いいや何でもない。朝は乾燥するもんね。悲しくなってきた。
 私は再度、鏡に映る間抜けな格好の少女を睨みつける。そして当面の目標は、チャクラで寝癖を治すことだと胸に刻んだ。

 廊下の窓の、カーテンの隙間から細く淡い光が差し込み、床を染めていた。おじさんは朝起きたらまず顔を洗って、服を着替えて、それからすぐにむくれ顔のままご飯を作る。寝起きの悪い私からしたら、どうやったらそんなにすくっと起きて行動できるのか謎で仕方ないのだが、いやしかしおじさんにだって欠点はある。そう……何故かいつもカーテンや窓を開けることだけをすっぽり忘れるのだ。だからおじさんは朝起きたらそのまま真っ暗な部屋で先述のようにしばらく行動する。そしていつもいつも箪笥や冷蔵庫に足をぶつけて歩くのだ。さらにはその音で起きる私がいる。だからこそ、“これ”は私の役目。ふん、と一度小さく鼻を鳴らして、片っ端から閉じたままのカーテンと窓を開けていく。白く淡い光に、明るく照らされるものたち。少しだけ大きくなる小鳥たちの声。ひんやりとした部屋に新鮮でさっぱりとした空気が混ざり出し、あたたかい空気が部屋を満たしていく。ようやくこの家にも朝が訪れたと実感出来るのだ。
 居間に戻ると、おじさんが既に朝食を用意してくれていた。おにぎりと、卵焼き。いつも通りの朝ごはん。私が大好きな朝ごはんだ。今日のは自信作なのか、卵焼きを見て一人ニヤニヤしていたおじさんは、私を見るとあからさまにその表情を変えた。なんだその顔は。

「……更に悪化してない?」
「気のせい気のせい」
「そうは見えないけどなぁ」

 おじさんの手が私の髪を撫で付けると、少しだけ髪が整った、ような気がした。

 

「そろそろ返してもらえるかしら」

 突如聞こえたその声に、彼は動かしていた手をぴたりと手を止めた。何事かと顔をそちらに向けると、見たことのない人―そもそもおじさん以外の人間を絵本や漫画以外で目にすることが無かった―が、いつの間にか、ちゃっかり靴も脱いでそこにいた。おじさんの知り合いだろうか、いやその前にどこから入ったんだ?、と梟の如く首を傾げる私を見たその人は、薄い唇をすーっと横に伸ばして微笑んだ。黒く艶のある長い髪が顔の半分を覆うように垂れている。血の気を感じさせない白い顔の中でぬらりと煌めいた金の瞳は、いつか山の中で見た蜥蜴や蛇のようにまあるく、しかしそれらよりも遥かに鋭く、何より冷たいという印象を増長させた。ここには似合わない、違和感のあり過ぎる存在に私は困惑していた。

「久しぶりね、アシベ」
「……おじさん? この人……誰?」
「……なまえ、部屋に戻ってろ」

 彼のその聞きなれない低い声に戸惑いながら、おじさんと、彼の向こうにいる人を交互に見やる。きっとあの人は、私の知らないおじさんを知っている。最早忘れかけていたおじさんの名前を聞いて、私はそう確信するのだった。頭から、おじさんの掌の温もりが離れていく感覚に私は少しだけ焦りを感じた。なんだか……理由は分からないが、もう二度とその手に触れてもらえないような気すらしたのである。
 思えばここは、おじさんと二人きりの世界だった。それが初めて、おにぎりや小鳥や、洗濯物でもない、“私以外の人間”におじさんの目を奪われた時だった。はじめて、第三者がこの世界に介入してきたのだ。何かが、起きないはずが無かった。何も変わらないはずが、無かったのだ。 幼いながら、私はそれを全身で予感していた。
 そう、私は完全に失念していた。世界はもっと、この部屋よりも山よりも、遥かに広いのだということを。

「……『なまえ』ねぇ。益々、あの子にそっくりに……」
「なまえ! 部屋に、戻れって!!」
「それにしても……結構良い暮らししてるのね。その立場で……資金はどこから調達しているのかしら。……まぁ大方、あの子には言えないようなとこから、でしょうけど。……例えば、盗みだとか」
「……貴方だけには言われたくないですし、何より……子供の前でそういういやらしいこと聞くのは勘弁してくれませんかね、大蛇丸様」

 ちらりと私を見たおじさんは、そのまま視線を窓の外へとずらした。遂には家の外に出ろと、そう言っているのだろうか。こきゅりと、自分が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
 おじさんの言うことは、聞かなくちゃ。そう分かってはいても、私の足はぴくりとも動かなかった。それは“大蛇丸様”が、依然として私を見ているからだ。得体の知れないものに対する恐怖と興味が渦巻いては私をこの場に縛り付けているのである。
 大蛇丸は音も立てずにこちらにすり寄って来て、机の上に並べられた、最早冷めてしまったであろう朝食を目だけで見下ろした。

「女の子を男手一人で育てるのは大変でしょう? しかもこんな質素な食事ばかり……栄養が偏るわよ」
「貴方のところなら、これよりも美味い料理が毎日出るとでも? ……それに貴方が育てたら中途半端になりません?」
「……どういう意味かしら」

 私知ってるよ。おじさんが本棚の奥に隠してる文字ばかりの本で読んだ。こういうのを嫁姑戦争って言うんでしょ。どうやら、私のことで争っているらしい二人を前に、私は頭だけが少し冷めていくのを感じていた。少しだけ油断してしまったのである。なんだ、と。一人の女に、二人の男。まさにおじさんの持っていた本の通りだ!たった一人、人間が増えてしまっただけでこんなに状況が複雑になるだなんて。ああ、そしてこれがシュラバってやつ?
 ますます二人の関係が分からなくなった私は、縋るようにおじさんのシャツへと手を伸ばした。おじさんと大蛇丸が動いたのは、その直後だった。部屋に響き渡った金属音に怯んで、伸ばした掌はただただ空を掴んだだけだった。おじさんの手にある黒い金属は、何だろう。そしてぽたりと、赤い雫が白い皿の上に落ちたのを私は見逃さなかった。その黒ずんだ赤色に、ぞわぞわと体中の毛が逆立つような感覚を覚えた。

「この子は……何も関係ないはずだろ! なのに何で今更……俺達のことは放って置いてくれ!」
「それがそうもいかないのよね。……知ってるのよ。この子に……チャクラが発現したこと」
「……!」
「アシベ……今も昔も、私はお前に興味は無いのよ。そして、これ以上話すこともね」

 二人の会話の意味を理解しようとする前に、何か白いものがひゅんと音を立ててこちらに飛んできた。まるで輪ゴムを鉄砲にして飛ばしたときのような、弾け飛ぶように、かつしなやかな飛び方で……。それが本物の蛇だと私が気付くまでに数秒を要した。そして気付いた時にはもう何もかもが遅すぎた。白蛇はおじさんの太腿に鋭い牙を突き立てていたのである。規則正しく並ぶぬらぬらとした白い鱗は、窓から漏れる光を受けて煌く。銀色の鎖のようにも見えた。一体、どこにこんな大きな蛇が隠れていたんだろう。おじさんはそのまま自分の足に巻き付こうとする蛇を掴み、手に持った黒い刃物のような物でそれを切り裂いた。床に飛散する液体に私は目を覆った。先週、二人で家中を大掃除したばかりだったのに。いや、それだけではない現実とは思えない光景の数々から、私は目を覆いたくなったのである。
 小さく唸るような声を上げて、おじさんが片膝をついた。

「おじさん!」

 慌てて駆け寄って、私はそこに手を当てようとした。怪我をして血が出た時はまずその血が流れるのを止めるべきだと、昔おじさんに教わったことを覚えていたからである。しかし私が患部に触れようとした直前、おじさんが声でそれを制止した。何故、とその顔を見てもただゆっくりと首を横に振るだけで、私には何も伝わらない。理解が出来ないのである。

「なまえは……なまえだ……」
「おじさん、血が……!」
「そうは言っても、今も漏れ出しているチャクラは誤魔化せないわよね。……貴方もいい加減認めてしまったらどうなの」
「……例え、そうだしても……なまえは……」
「お、おじさん! 何が何だか分からないよ、何が起きてるの、ねぇ!」

 碌に回らない舌で、叫ぶように声を上げておじさんの肩を揺さぶっても、何も答えてはくれなかった。おじさんのことは大好きだ。けれどいつも肝心な、私が一番知りたいことを教えてくれないのだと、改めて思い知らされる。
 彼はだらりと頭を垂れて、微かに体を奮わせて……自らの血をゆっくりと吸っていく床の隙間を見ていた。それは、私の知らない横顔だった。何が彼をそうしてしまったのか、私には何も分からない。ただ、おじさんが包丁で手を切った時や、石に突っかかって大袈裟に転けた時の顔とは明らかに違う。同じ「苦しみや痛み」でも、そこに一滴、別の感情を混ざっている。何かがおかしい、そう思った私は原因はひとつしかないと、大蛇丸を睨みつけ――そして、どろりと視界が歪んだ。