ぬるい風が吹いていた。土の匂い、水の匂い、草の匂い。どこか懐かしさすら感じる匂い。その全てを乗せて、時にはかき混ぜて、私に襲いかかってくるように唸りをあげる。強く重い風が私の進行を阻み、じとりとした冷や汗すらも滲んだそばから乾かしていった。こちら側に来る勇気が果たしてお前にあるのかと、何かとてつもなく大きな存在が私に忠告しているかのようであった。
この先にきっと私が望むものがあるに違いない。そういう漠然とした思いが胸にあった。自らが望むものでありながら、その正体は分からない、けれどそこにきっとある。そう思った。だからこそその先に行ってみたい、とも思った。この足を押し戻そうと、この目を潰そうと吹き荒れる風に恐れがないとは言わないが、それ以上にその感情が重しとなって、私をその場に留まらせた。
ふと視線を感じて顔を横に向ける。その僅かの間も音を立てて吹く風が髪を乱した。視界を邪魔する髪をかき上げてから目を凝らすと、小さな鳥がこちらを見ていることに気付いた。まるで見えない境界線が私達の目の前にあるかのように、平行に並んでじっと見ている。風と鳥と私だけの世界。不思議な光景だった。何より不思議なのは私よりも遥かに小さなその体は、向かい風を受けてもぴくりともしていないということ。
しばらくそうして互いに見つめ合っていただけなのだが、一体何が合図になったのだろうか。次の瞬間、その鳥はぱちんと弾け飛ぶかのように翼を翻し、さっきまでと逆方向に――後方へと風に流されていった。いや、もしかすると自分の意思で飛んでいったのかもしれない。
しばらくの間、私は呆然とその場に立ち尽くしていた。本当に一瞬の出来事だった。
あの鳥はどこへ飛んでいったのだろう。そっちは寒いし暗いし何も無いというのに。その果てに、求める場所があるというのだろうか。それが、お前の望んだ場所ならば、私は何も言わないけれど。
「あたたかいところだと、いいね」。風の音を掻き分けて私の耳に届いた、その声は誰のものだったのか。
*
思わず口を滑らせてその名前を呼んでしまったなら、そこで全てが終わってしまうような、そんな気がしていた。
九尾が木の葉の里に現れた夜、散ったその葉は数知れず。たった数時間の間に、九尾は里と人の心に大きな爪痕を残して消えた。
その中で、英雄の慰霊碑にその名を刻まれることもなく、静かに死んでいった少女がいることを、一体誰が知っているだろうか。何人が知っているのだろうか。
――少女の名前はみょうじ。齢15であった。
彼女はいつも、何かに取り憑かれたかのように「里と仲間を守る」と言って聞かなかった。そのためならば、自分が傷付くことも厭わない。そんな強さと脆さを兼ね備えていた。医療忍術を学んでいた自分からすれば、そんな彼女が許せるはずもなく、「死んだら全てが終わる」のだということをどうにかして彼女に理解させようと必死だった。しかし最期まで彼女の意志が揺らぐことはなく、俺の言葉に対し「死んでも守る」などと冗談なのか本気なのか、それすら分からないいつものトーンで、そう答えていた。
皮肉な話、そんな一匹狼と化し暴走した彼女を何人が仲間と認識していただろうか。そして彼女もまた段々と失っていく信頼に振り返ることもない。それが酷く不気味に思えた。里を守るといいながら、彼女の真意は、願いはどこか別のところにあるように感じたのだ。とはいえ、それを話してくれるような奴では無かったし、そんな時間も与えてはくれなかった。
みょうじは、そういう奴だった。
髪を振り乱して走る少女を横目に、彼女を思い出すのはもう何度目だろうか。年を経るごとに伸びていく少女の背丈と髪が、段々と記憶の中の彼女の姿に重なり出していることに、俺は少しだけ、恐怖を感じていた。
薄緑色の柔らかな草の中を、まだ細く白い足が駆け抜けて行く。目の前の太陽の日を吸った白い布団にも負けないその足の眩しさに僅かに目を細めつつ、時の流れの速さにひとり、ため息を吐いた。
九尾が木の葉の里に現れた日の朝、その地に一人の赤ん坊が生まれた。
いや、正確には「生まれた」のかどうかは定かではなかった。その瞬間を見たものは一人としておらず、また赤ん坊の周りには何も無く、ただ当たり前のように、みょうじが息絶えた山の中、涙と土に汚れた姿でそこにいた。その赤子の名は――。
「なまえ」
他の誰でもない、自分がつけたその名前を口にする。蝶を追いかけるのに忙しいのか、それとも単純に聞こえていないのか、返事が帰ってくることはなかった。が、特に用事があった訳でもなく……ただただ、こんな自分が嫌になっただけであった。こうして、「意味もなく」名前を呼ぶ行為がすでに、意思の弱さを示しているようで情けなく思う。意味がないのに、無意識に意味を求めてしまっているのかもしれない。そんなことを考えている俺のことなど、あの子が知るはずもなく。いや知っていてほしいなんてことは勿論無いが。
十分太陽の日を浴びた布団を物干しから降ろそうと手を伸ばしたその時、小さな黒い影がひゅんと、白い布団の上を走った。完全に油断してはいたが、その軌道の先を読み取れないほど、忍としての感覚は鈍ってはいない。「ああ、春が来た」。俺は、視線の先にその姿をとらえて呟いた。
「……最近あたたかくなってきたし、毛布は片付けるかな」
「え、いや! さむい、まださむいよ! おじさん!」
少し離れた距離にあるの木々の影から慌てたような声が上がった。名前を呼んでも返事をしないくせに、そういうところだけは聞き逃さない……相変らず都合のいい耳をしている。そんな風に思いながらも、風に揺れる洗濯物の隙間から少女がこちらに走ってくる様子が見えてしまったなら、全てを許してしまいたくなる。やはり俺は甘いのかもしれない。
猛スピードで駆け寄ってきた少女の体のあちこちに土や木の葉が付いていることに気付き、洗濯物に近付かないように、と念を押す。なまえは首を傾げつつも一応、頷いた。おそらく意味は分かってはいないのだろう。鼻の頭に付いた土にさえ気付いていないのだから。
「ね、おじさん。毛布まだいるよ。朝さむいもんよ」
「そう言っていつも毛布を蹴り飛ばして寝てるのはどこの誰だ?」
「それは……床の下に住んでるでっかいねずみかな」
「じゃあ、お前の布団にでっかいねずみ捕りをつけなきゃな。こうやって……バチーンって捕まえるための!」
そう言ってなまえの頬を両手で勢い良く挟みこむと、カエルを踏みつぶしたような音と、言葉通りのいい音が響く。これぞハリのある子供の肌故といったところか。痛くはないように手加減はしたつもりだが、それでもねこだましに近い効果があったらしく―ねずみなのに猫だましとはこれ如何にといったところだが―目を白黒させるなまえが、呆然とこちらを見つめている。その柔らかな頬、手のひらから伝わる温さこそが、触れることのできる幸せであると思った。
頭上で羽音がしたのは、それから数秒もしないうちだった。なまえとともに顔を上げると、小さな鳥が家の屋根の当たりをくるくると飛びまわっていた。まさに“家”を下見中といったところだろうか。
「ほらみろ、春になったから、鳥さんが帰ってきたぞ。やっぱり毛布はいらないな」
「……かえってきた、っておかしいよ?」
だってこいつイチゲンさんだよ、見たことない顔してるもん。などと、幼い顔からは想像も出来ない程の訝しげな目で空を見つめながらそう続ける。お前その顔してると老けて見えるぞ。大体「一見さん」なんて言葉、一体どこで覚えたんだろうか。5歳の口から出たとは思えない。
「それにここ、おじさんと私の家じゃん」
なまえはまだ幼く、この小さな家の、山の外の世界を知らない。また、他の人間が入ってくることも滅多にないため、ずっと俺と二人で生きてきたといっても過言ではない。今の彼女にとっては、ここが世界なのだ。そんな狭い世界で、同じところをぐるぐると回っている。それでも今はまだ冒険者気分でいられるのは、体力も記憶力もまだ十分ではない、幼さ故だろう。拾ってきた木の枝を振り回したり、低い木によじのぼったり、適当に作った歌を歌ったり……そんなことばかりを毎日繰り返して生きている。温くて鈍い世界で、それが当たり前だと信じて生きている。そして俺もまた、そんな彼女と一緒に、毎日を繰り返し生きているのだ。例えそうなるように作られたものであっても、ここは間違いなくなまえと俺だけの場所だった。幼いながらに、なまえもそれを理解しているのだろうか、自由に羽ばたく鳥を目では追いながらも、珍しく拗ねたような顔をしていた。
「まぁまぁそう言わず」
そうしてしばらくの間、黙って二人で空を、時折視界に入ってくる小さな鳥を見上げていた。里で暮らしていたころはこの時期になるとよく見かけたものだが、事実こんな山奥で見かけるのははじめてだった。一見さんというのは間違いではない。しかし、うちはただ里の外れにあるというだけで一見さんお断り、などというルールもないのだ。
依然として鳥を睨みつけているなまえの頭を撫でる。砂利が混ざりぱさぱさした髪が、かさりと音を立てた。
そして、もう一度空を見上げて一人思う。
「――おかえり」
その姿を見る度、そう声をかけたくなるのは何故なのだろうか。