「志島が……負けた?」

 自分で口に出して復唱してみるが、どうにも信じ難い。自分の発した言葉でありながら、異国語を喋っているような、そんな違和感すらも感じていた。彼等は、一体何を言っているのだろうか。
 そんなはずはない、きっと聞き違いだろうと、真偽を確かめようと光津さんに向き直った私は、彼女のその口の動きに固まる。当たり前のようにするするとその口から零れ出たのは「もう出回ってるのね」という、彼等の言ったことを肯定するかのような言葉。今度は、聞き間違いなどではない。

「流石の貴女でも榊遊矢は知ってるでしょ? ペンデュラム召喚の創始者の」
「……榊? あの、何でいきなり彼が出てくるの?」
「北斗は彼に負けたのよ」
「……え?」

 彼女曰く、先日LDSと遊勝塾でデュエルの3本勝負をしたらしい。志島と刀堂、そして光津さんの3人が、LDS代表としてデュエルをしたという。試合に至った理由は詳しく教えてもらえなかったが、彼女の話す様子から、決して穏やかなものではなかったというのは感じ取れた。
 LDSの精鋭を3人も戦わせるだけの価値が、その試合にはあったとでもいうのだろうか。

「刃は引き分けだけれど、相手が相手だから、決して褒められる成績ではないはね。……LDSの生徒として情けない」
「あの刀堂が、引き分け……!?」

 苦い記憶とともに植え付けられた、彼のデュエルが蘇る。まだ比較的新しい記憶であるため、それはそれは鮮明に。
 刀堂が引き分けになったこと、その衝撃も大きなものであるが、やはり、それよりも気になるのは志島の事である。彼が「負けた」という事実が未だにふわふわと浮いていて頭の中に入ってくれない。「40連勝が近い」などという話もしていなかったか?私の中の志島とは、そんな強い、人間であった。
 カツ、と廊下の向こうからした足音。そちらを向くのは、何故か気が引けた。

「げ、真澄……」
「あら、やっと……来たみたいね。それじゃあ私は自分の教室に戻るわ。また機会があれば会いましょ」

 黒髪を翻し去って行く光津さんは、実にしなやかな足取りで、私と志島の間をすり抜けていく。途端に静寂を取り戻した廊下。再び歩き出した志島は、もう私を見てはいなかった。
 なるべく足音を立てないよう教室に向かう彼に続く。

「何だよ……」
「い、いや……教室こっちだし……」
「……どうせ真澄に聞いたんだろ、3本勝負の件」

 核心をついてきた志島に動揺していると、急に彼が立ち止まった。反応が遅れた私はそのままその背中にぶつかってしまった。小さく謝罪しつつ彼から離れる。そうして気付いたことがある。
 私がぶつかってもびくともしなかったのに。背中越しに聞こえた舌打ちも、苛立った声色もいつも通りであるというのに。だからこそ一層際立つ。彼の背中は、こんなにも小さかっただろうか──。

「お前、榊遊矢とどういう……いやそんなことはもうどうでもいいか。……僕はあいつに負けた」
「本当、なんだ……」

 志島が負けた。デュエルで負けた。それが嘘ではなく事実であるということを、彼のその声色から感じ取れた。いや、最初から事実であると光津さんも言っていたのに、彼に会うまでそれを受け入れることが出来ず、無意識に拒絶していたのは私のこの耳、目、そして脳である。
 いつもの自信に満ちあふれた彼は、もういない。それはおそらく一時的なものであると分かっていても、何故だろうか。とてつもない喪失感を今、私は感じていた。

「……41勝目になるはずだったのに、連勝記録も全てパーさ」

 40連勝。私には想像もつかないその領域に、彼は今まで立っていたのである。そんな彼を、私は心のどこかで完璧な存在として尊敬していたことを、今になって知る。
 だからこそ、彼の落ち込む姿など見ていられなかった。完璧でない彼など彼ではないとでも、いうのか。自分の中でその問いが浮かぶ。しかし、そう思ってはいけないのだろうか。だって、いつも私にそんな姿しか見せて来なかったのは、志島の方なのだから。

「別に……いいじゃん、負けの一回くらい」
「一回……くらい?」
「私なんか年がら年中負けてるよ。さっきも負けた。でも、次はきっと勝てると思って……」

 彼の落ち込む姿を見るくらいならば、いつものように小言を言われた方がまだマシである。そう思った私は、いつもの彼に戻ってもらおうと、ただその一心で「いつものように」彼に接したのである。
 それが、間違いだったのかもしれない。

「志島は私よりずっと強いし、今回たまたま負けちゃっただけで連勝記録なんてまたすぐ……」
「君に……何が分かるんだ……」

 私の言葉に、彼の肩が揺れた。何か返してくるだろうか、そう思った次の瞬間には、振り向いた志島が私に掴み掛かっていた。あまりに突然の出来事に、首元の痛みに気付くのが遅れた。

「勝ったこともない、容易に勝利を諦める君みたいな落ちこぼれに!!何が!!」

 教室に響き渡る彼の声。久しぶりに正面から見る彼の顔、しかしその激昂した表情は、はじめて見るものであった。

「勝利の喜びも! 負ける悔しさも、屈辱も! 君は知らないじゃないか!!」
「え、……なに、志島……私だって負けてる……」
「君は本気じゃないから、負けてもそうやってへらへらと笑っていられるんだ……」

 悔しさ、屈辱、そんなネガティブな感情。デュエルに負けたことでそれを感じたことがあっただろうかと考える。
 次ならいける。今回は駄目だったけど次こそは。前向きにそう思うことの何がいけないのか。そして先程の彼の言葉を思い出す。「諦め」、それが私の根底に存在すると、彼は言いたいのだろう。

「勝つことを知らない君は、負けることからも逃げてるくせに……。本当の、『負け』すら知らないくせに……」

 私の胸ぐらを掴む、彼の手が震えていた。
 結論。私は、デュエルに負けて悔しい思いをしたことはない。屈辱を感じたこともない。ではそれはどこへ?ネガティブな、爆発することのなかった歪んだ感情の全てが流れつく場所を、私は知っている。しかし、それを認めることは、したくなかった。それだけは絶対に。だからこそいつも目を逸らしてきた、そんな感情達がそこにはあった。
 蓄積されたそれを私の中で蠢く何かが齧り続けているような、チリチリとした痛み。それこそがその存在の何よりの証拠。

「君は一体何を目指しているんだ……?僕には理解できない」

 まだ次がある、これからまた新しくやりなおせばいい。ありきたりな慰めの言葉。漫画や、アニメの主人公なら、先程の台詞で相手を元気元気付けられたのかもしれない。しかし私では駄目なのだ。志島の言う通り、勝ったことがない私には、何の説得力もない。では、本当の「負け」とは一体何なのだろう。

「私だって頑張ってるのに……」

 まだまだ足りないということだろうか。彼の言葉が私の中でぐるぐると回る。
 ぽろりとこぼれ落ちた本音。ハッと顔を上げた北斗が私を見ている。その瞳は珍しく後悔で揺れていた。そんなに負けたことが辛かったのだろうか。今、泣きそうなのは私の方だというのに、何故志島がそんな顔をするのか。いや、私が更に彼を傷付けてしまったのかもしれない。掴んでいた手を離して、少しよろけながらも後退した彼は、気まずそうに私から目を逸らした。

「わ、悪い……今のは、言い過ぎた……」
「……ううん、こっちこそ、ごめん。何も分かってなかった」
「……励まそうとしてくれたのは、分かってるんだ。なのについカッとなって……」
「いいんだ。私は本当の負けを知らない。志島がそう、言うなら、きっとそうなんだろうし」

 私がもしそれを知っていたのなら、志島をちゃんとした言葉と気持ちで励ますことが出来たのだろうか。本当の意味でいつものように接することが出来たのだろうか。悔しさとも違うはじめて抱いた感情。この胸の痛みは全て、自分のせい。自分の不甲斐なさが全てを生んだのだ。
 兄はどうだったのだろう。戦績を見る限り、あの兄でも負けることはあったようであるし、きっとそれを知っていたのだろう。ならば私も、それを分かるくらいには強くならなければいけない。
志島の考えていることを理解するためにも、勝たなくてはいけない。
 負けて、笑っていられるようでは駄目なのだ。

「なまえ!」

 背中にかかる声を振り払い、走り出した。