「あ、お兄ちゃん見て!こんなところにカブトムシがいるよ!」
「なまえ、それカブトムシやない。イニシャルGや」
ここ数年で最悪な目覚めであった。何故、今こんな夢を見たのか。いや、夢ではない、これは過去に実際あった出来事である。凄いよぉ!まさか朝からこんな嫌な気分にさせられるなんて!君はなんて昆虫なんだ!エクセレント!トラウマだよ。生涯忘れることはないでしょう。そっちは本物のカブトムシ。
*
今日はせっかくの休日。カーテンの隙間からは既に淡い光が射しているが、もうしばらく寝ていても罰は当たらない時間である。しかし、あの悪夢のせいでそんな気は全く起きなかった。微かに汗ばんだ体が鬱陶しくなり、渋々ベットから這い出ると、早朝の冷たい空気が、ひんやりとした床が全身の眠気をも覚ました。
カーテンを開けると、白く暖かな光が部屋を照らして、先程まで感じていた肌寒さもあっという間にどこかへいってしまった。光を背に、大きく伸びをして深呼吸をする。早く波打っていた鼓動も、もう正常に戻りつつあった。
ふと、視線を感じたような、何かの気配を感じたような気がしてばっと振り返る。そこにあるのは、壁と、ただ閉じた引き戸があるだけだった。しかし、確かに今、何かを感じた。引き戸で仕切られたすぐ隣の部屋は、兄の部屋である。鍵はないため、入ろうと思えばいつでも入れるのだが、滅多に入る事はない。父は仕事のはずだから、母がいるのだろうかと考えた。それ以外の誰かがいるなんて事は考えたくはないが……少しだけ身構えつつ、恐る恐るその戸を引いた。
そして息を飲む。
カーテンが閉じた、仄かに暗いその部屋の、本棚の前に誰かが立っている。父でも母でもない。私と同じくらいの背丈の少年が、こちらに背を向けて立っていた。本棚の影、その闇に溶けるように淡く、しかし当たり前のように、そこにいた。
声にならない声が喉の奥で渦巻いている。今、口を開いても、悲鳴のようなものしか生まれそうにない。
目を凝らすことは、罪のように感じていた。焦点を合わせれば合わせる程に、体の震えが大きくなっていく。頭では、最初から分かっていたのかもしれない。それが一体、誰であるかということを。その背中を、いつも見ていた背中を忘れられるはずがなかった。
「お兄ちゃ……!」
そう声をあげた瞬間、少年はこちらに向かってゆっくりと振り向いた。……ゆっくりと感じたのは、私の感覚かもしれない。時が止まったような、とはこういうことなのだろう。
どこか、鏡を見ているような気分であった。私にも似ているその目の形、輪郭、それはまさに兄であった。無を顔に貼り付けて、こちらをじっと見つめている。
そんなはずがないということも、分かっていた。だからこそ、乾いた瞳を潤すため、瞬きをした。そして、目を開いた、その次の瞬間には、そこはただの空間になっていた。
残ったのは、「やっぱり」という感想。何故なら、兄の姿は三年前から何も変わっていなかったからだ。それは、私の彼の記憶がそこで止まってしまっているからだろう。あれは本当の兄ではなかった。それを理解していても、縋りたくなるようなこの気持ちは、後悔はどこへやればいいのか。
まだ寝ぼけていたのだろう、きっと。これもあの夢のせいに違いないと、偶然であると言い聞かせ、再度激しくなっていた鼓動を無理矢理落ち着かせる。そして、一歩、部屋の中へ踏み出した。
この部屋に入るのは、久しぶりのことであった。兄のデッキケースを持ち出したあの日から一度も入っていないから、それこそ何ヶ月ぶりというくらいだろう。
整理整頓された机の上に置かれた、傷だらけの昆虫図鑑を一撫でして、部屋を見渡す。私の部屋と色違いのベットとカーテン。壁に貼付けられているのは、名も知らぬデュエリストのポスター。専用のケースに入った昆虫標本達。そして本棚。
どこもかしこも、相変わらず定期的に掃除されているようで、埃っぽさは全く感じない。この部屋は――デッキケースがなくなったこと以外では――三年前から変わりがない。それはそれは、異様な程に。
少し躊躇いつつも、本棚の前に立つ。先程兄を見た場所である。絨毯を見下ろしても、人が立っていたという形跡はなかった。やはり、気のせいだったか、と少しほっとしたような、悔しいような、微妙な思いでため息をつく。それを拾ってくれる人はいない。
せっかくだからと、デュエルに役立ちそうな参考書が無いか本棚の中を探してみたが、あるのはどれも同じにしか見えない昆虫図鑑と漫画、そしてほんの僅かな小説だった。漫画はともかく、小説なんて読むような人じゃなかったはず。きっと、父の本も混じっているのだろうなと苦笑しながら手に取った一冊。そのタイトルを見て、少しだけ背筋が冷えた。
自分でも何故だか分からないのだが、あの姿を見た時、真っ先に感じたのは喜びや感動ではなく――。
再度、気配を感じて振り返る。そこにあるのは昆虫標本、ただそれだけであった。またか、と一人ごちる。専用のケースに並べられたいくつもの標本が、虫の目が、私を見ているようなそんな気がして、昔から苦手なのだ。だから、好んでこの部屋には入らない。蛾を盗み出したあの少年のことを、思い出してしまうから。
「……勝手にデッキ使ってること、怒ったのかな」
いっその事、怒るなら直接怒ってくれればいいのに、と思ってしまう自分がいた。