(カブト視点)
「流石に予想外だな……」
灰褐色の壁に手を伸ばし、不自然な程に綺麗な裂け目に沿って指を滑らせる。壁を抉る、割る、というよりは明らかに「斬られている」その壁にひとり、感嘆の息をついた。上から下へ、流れるように弧を描いた傷の長さは、おおよそ30cmといったところだろうか。同じような傷跡が他にもいくつか見られる。
「これを全部あの子が?」
振り向きざまに君麻呂にそう問いかけると、彼は何も言わずにゆっくりと頷いた。
彼の部屋は必要最低限のものしかなく、いつ立ち寄っても変わりがないほど殺伐としていたのを覚えている。こんなに生気のない部屋があるだろうかとある意味では関心したものだ。しかしそれは元々、それこそ彼がこの部屋に来る前から変わらない事実でもあった。
「私は予想していたわよ」
先の僕とは反対の言葉。珍しく随分と楽しそうな顔をした大蛇丸様が、舐めるような視線で僕の手元にある傷を眺めた。
「でもまぁ、君麻呂は自分の部屋をぐちゃぐちゃにされて気分悪いでしょうね」
「別にそこは気にしてません……」
「そこは? ……じゃあ何が気になっているのかしら」
質問をしているはずなのに、疑問符を感じられないトーンで紡ぐ。まるでその答えを既に知っているかのような大蛇丸様の口振りに、僕だけでなく、質問された側である君麻呂も少し戸惑っているようであった。
僅かに視線を僕の方へと逸らし、幼い瞳が故意なのか無意識なのかは分からないが、助けを求めている。求められている。しかし当事者ではない自分ができることは何もない。彼の口がどんな言葉を拒んでいるのかを察することもできないのに一体何を求めるというのか。こういう時(自分のことはしっかりと棚に上げつつも)、子供というのは実に面倒なものだと再認識させられる。「君麻呂、正直に」、比較的柔らかな笑みを作りつつそう促して、彼が自分で言葉を整理するのを待った。
「僕の……骨に、……屍骨脈に傷をつられたのは、生まれてはじめてでした」
苦虫を噛み潰したような彼の表情に驚いた。彼が自分の感情を表面に出すのはとても珍しいことであったからだ。
あの子は、部屋だけではなく君麻呂のプライドにすら傷をつけたのか。ますます謎が深まるばかりである。と、僕がまだあどけない少女の顔を思い浮かべている間も、大蛇丸様はじっと君麻呂を見つめていた。その瞳は、これまた珍しいことに爛々と輝いているように見える。口が裂けても言える事ではないが、奇妙な絵面だった。
「大丈夫よ、君麻呂。貴方にはまだ無限の可能性がある。たった一度のことで落ち込んでいるようでは今よりも強くなれないわ」
「強く……」
「そう、強くなりなさい、君麻呂。今よりも強く、硬く……それはお前にしか出来ないことよ」
強くなりなさい、私のために。言葉の裏に隠された真意は、間違いなくそれだろう。彼が誰かのために尽力をつくすはずがない、全ては自分自身のためなのだから。相変わらず、大蛇丸様はわるい人だと内心ほくそ笑む。
「そうしてあの子を貴方が守ってあげなさい」
「……なまえ? 何故……僕が、なまえを?」
「放っておいたら勝手に転んで死んでしまいそうでしょ。馬鹿だから、あの子。それではいけない」
彼の喉から出た言葉を聞いた殆ど人間がそれは“嘘”であると断言できるような、内容に反して抑揚も色も感じられないその声を、君麻呂は容易く飲み込んでしまう。それが大事なものであると確信し、疑いという感情すらも遠いどこかへ消し去って、目で、耳で、肌で、その全てで吸収しようと必死になる様は見ていて哀れにも思える程。彼はその見た目の通り、どこまでも真っ白だ。
君麻呂は、少しだけ思案するように目を伏せたのち、彼の言葉に頷いた。
要するに、君麻呂に彼女を見張らせるということだろうか?その必要性は?そもそも彼女を「長居」させる予定だという事実に違和感を感じる。君麻呂と違い、彼の言葉を素直に飲み込むことのできない僕は、その真意がどこにあるのかを考えていた。
*
「君麻呂はいい子ね」
その言葉にも、きっと意味はなく。きまぐれでこぼしたものだったに違いない。
「……大蛇丸様。差し支えなければ何故君麻呂を…………いや、なまえが一体何なのか、教えていただけませんか?」
金の瞳がこちらを射抜き、僅かばかり怯んでしまう。未だに慣れない。あの目をまっすぐに見つめられる意味麻呂にある種の尊敬と軽蔑を感じてしまう程だ。
「……みょうじ」
「……みょうじ? といえば確か……」
大蛇丸様は自らの意思で里抜けをしたが、それでも自分の生まれた「木の葉」という場所には強い執着がある。正しくは、「火影」という存在にだろうか。僕は木の葉の下忍、薬師カブトとして木の葉の里と、大蛇丸様のアジトを行き来し、定期的に木の葉の近状を彼に伝えている。
――あれは今より一年程前だっただろうか。彼にその人物の情報を探ってくるように言われたのは。
「ええ、そう。みょうじは、木の葉の忍び」
彼が自らの過去を語るような事は滅多にしない。酷く執着している木の葉の里のことも、何を期待して情報を欲しがるのか、何の経験からその考えに至ったのか、理由を僕に語るようなこともない。僕もまた、ただ任務として「僕に」与えられた役割を淡々と果たすだけである。あれは重要性がある任務でもなく、位置づけとしてもあくまで別の任務の“ついで”だったはずだ。であるのに、今になって何故その名前がまた彼の口から出てくるのだろうか。確かに、あの任務にはいつも以上に不可解なことが多かったのも確かで、彼の真意が気にならないといえばそれは嘘になるが。
「人間関係も異様な程に薄かったようで、その女のことを知っている人間すら殆どいませんでしたね……」
「異様な程に、ねぇ……。……フフ、それはカブト、あなたもきっと同じでしょうね」
「当然、“僕”はそういう風に意識していますから」
「ええ、分かっているわ。あなたのその能力はとても素晴らしいものよ」
抑揚も色もないそれを軽卒に受け入れる程、僕も愚かではない。
大蛇丸様は少しの間黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「みょうじは……私にとって最初の部下で、教え子だった――とても賢くて、故に脆い娘」
先程も述べた通り過去を語る彼は極めて珍しい。しかも、それが自身のことではないとなると尚更である。
「大蛇丸様はみょうじという人間がお気に入りだったようですが……経歴には特別目を見張るようなものもなく、中忍にすらなれないまま……まぁ当時が戦時中だったのも関係はあるのかもしれませんが。……それに」
「それに?」
「彼女は……九尾が復活した“あの夜”に死んだと聞いています」
死因もまた、時期を考えれば珍しいものではない。“死因”は、であるが。僕が不可解に思っていたのは、彼女の死後である。
「けれど英雄の慰霊碑に彼女の名前は無い」
「……」
「基本的にあの日に亡くなった忍びは里を守った英雄として形だけでも扱われているはずです。しかし……彼女は、むしろその逆」
あろうことか、みょうじという人間は「大罪人」として木の葉の里の忍びリストから除外されていたのである。あの夜の事件の元凶である――“九尾の狐”を呼び起こしたという、不確定な情報だけで。そして、一番の気持ち悪さが漂うそれを彼女自身が今際の時に自白していたというのだ。
果たして、15歳の少女にそんなことが可能なのだろうか?そもそも、あの事件は一般の人間の間ではある種の“災害”のような扱われ方をされているのが現状だ。それに尾獣の封印と解放については、僕や大蛇丸様ですら分からない事も多い。まさか、大蛇丸様は信用しているのだろうか?その情報が信用にたる何かが、みょうじにはあって、それを師であったという彼は知っているとでもいうのだろうか?
……いや、待て、それよりも。
「みょうじとなまえに一体何の関係があるというんです?」
僕の言葉に、彼は稀に見るいやらしさを含んだ笑みを浮かべる。
「……君麻呂の血と体は本当に素晴らしいわね。それだけじゃない、顔つきも、肌の色も、私好みに成長している……目にする度に惚れ惚れする程よ」
またも話をそらされた、というよりは敢えて「遠回し」にされたことを察してげんなりとした気分になった。……大蛇丸様は本当に人が悪い。困惑する僕を見て、彼は楽しんでいるのだ。
「はぁ……? 確かに、彼の成長には目を見張るものがあります。情けない話、体術においては既に僕より上を……いや、元よりセンスは彼の方が上だったんでしょうね」
しかしそれが今の話になんの関わりがあるというのだろうか。君麻呂の血継限界、身体能力については日々観察を続けていることであるし、その数値の素晴らしさは君麻呂本人以上に把握している。確かに見た目も子供でありながらすでに核のある端正な目鼻立ちをしているとは思うが……それは大蛇丸様の主観、“好み”によるものだろうから僕には何も言うべきことはない。
彼が無駄な話をするはずがないということは分かっていた。分かっていたからこそ、どうにも繋がらないピースにやきもきする。
「あの子の体を手にする日が待ち遠しいわ。若く、美しく、そして強固な肉体……この世にたったひとつの器」
大蛇丸様の丸い瞳に映る少年は、すでに彼のものである。それは少年がその手をとった時に決まっていることであり、もしかすると少年が「かぐや一族」として生をうけた時から既に決まっていたことなのかもしれない。
「……大蛇丸様の開発した“不屍転生”を使えばそれも不可能ではなくなりました。あなたはいつまでも生き続けることができる」
「不屍転生」。大蛇丸様が十年以上の時間をかけて開発した禁術だ。「器」となる人間を体内に取り込み、異空間でその精神を殺し、その肉体を乗っ取る。自分の魂をそのまま「器」に移動させるため、乗り移る先によっては今よりも若く強靭な肉体が自分のものとなるのだ。
……君麻呂は彼の未来の姿そのものなのだ。大蛇丸からしたら見た目どうこう以前に、目に入れても痛くない存在であることは理解できた。
「そうね……でも肉体を変える度に起きる障害はどうすることもできない。相応のリスクもある。……見た目も、術を使えばどうとでもなるとはいえ、“本来の自分”として生まれ変われる訳ではないのよ」
「はぁ……それの、どこに問題があるのでしょうか? 多少の弊害があるとはいえ、単純に、肉体年齢が若くなればその分寿命もリセットされる。そして、対象の能力すらも自分のものにできる。それが例え血継限界であっても」
それはコピーではなく、アップデートに近いのだろう。ただ「自分として」生まれ変わるよりも、よっぽどいいと思うのだが。
人間は欲深い生き物だ。現状よりの成長を、変化を望まない人間が果たしてこの世にいるのだろうか?望まないと公言しているような人間を――僕は見た事無いのだが、仮にいたとしてもそれは口先だけのことであり、人間の、生物の本能として進化を求めるのは当然のことであると思うのだ。そうだ、目を覚ました時に同じ自分であるよりも、何かしらプラスアルファされた状態であるほうがいいに決まっている。
僕は、そう思う。
「……それにまだ医学的にも忍術的にも、一度老いてしまった肉体を完全に回復させることは不可能です。そして先程おっしゃっていた通り、現状を維持することも出来ません。『不屍転生』こそが、今出来る最良の手であると思うのですが……もしくは」
「もしくは、あの赤砂のサソリのように、肉体を捨て自らを傀儡にするか」
「……ええ」
「確かに、この世に変わらないものなどないし、終わらないものもない。だからこそ何時の時代も人間が追い求めて止まないものがある……彼もそれを求めていたのかもしれないわね。……ああ、そういえばあの組織にはもうひとり不死の研究をしていた人間がいたわね」
「それは初耳ですね」
「それから二代目火影の生み出した禁術……」
形と目的は違えども、最終的に皆たどり着くところは同じなのかしら?と、彼は鼻で笑った。
「別に自分の体に未練がある訳ではないわ。むしろ今のこの体には飽いてきたくらいよ。――ただ、もし、同体に転生できるとしたら……それこそが真の意味で不死であると思わない?」
「は……」
同体への転生?呆気にとられ、口が次に発する言葉を求めてゆるりと開く。
「死体でもない、造られた体でも、別の人間の肉体でもない……自らの体でもう一度生を生きる」
「それは……」
「これがみょうじよ……あの子よく似ていると思わない?」
彼が懐から取り出した写真に僕は目を見開いた。いや、僕が一番に驚いたのは、大蛇丸様が写真(しかも他人のもの)などというものを保管しているという事実なのだが。
「私が他人の写真を持ってることに驚いたって顔をしているわね?」
ばれている。
写真は古く、その中の少女はこちらを見てはいなかったが、顔を認識することは容易だった。
黒に限りなく近い藍の髪が、肩に触れないくらいの長さで切りそろえられている。額には木の葉の額当てがあり――続けて落ちた視線の先。その少女は見覚えのある目鼻立ちをしていた。顔立ちだけではない、髪や、瞳の色も全てに既視感がある。
なまえだ。
「確かに似てはいますが……」
似ている、と言ったものの、むしろまだ彼女とそう関わりのない人間からすると、記憶の中のなまえと「ほぼ同じ」であるようにすら思えた。そう、ほぼ……。
唯一気付いた違いといえば、それは表情、だろうか。まだ幼さを残していながら、その瞳はひどく落ち着いているように思える。記憶の中の少女は笑顔だったり、見ているこちらも力が抜けてしまうような間抜けな顔ばかり見せていた。表情、たったそれだけで人の顔は彩りを変える。それだけで僕には、なまえがみょうじによく似ているようにも、全くの別人のようにも思えてしまって、その差に気持ちが悪くなった。
僕が写真と睨み合っている間に、大蛇丸様は彼の机の棚から取り出した書類の束を持ってこちらに戻ってきた。
「あの子を連れて帰ってきた時に、DNA検査したでしょう?」
「ええ、しましたが……。…………そんな、まさか?」
「そのまさかよ。保管していたみょうじの遺伝子情報と相違なかったわ。寸分の狂いも無く。あまりに予想通りで、呆気なさすぎて――久しぶりに声をあげて笑ったわね」
ぱしんと書類を叩き、彼はますます愉快そうに口を歪めていく。
「そしてチャクラ……こっちに関しては正確に比較することは不可能だけれど、これも全く同じであると思うわね。そしてあの壁の傷からして……性質変化は“風”。それも同じ」
僕は君麻呂の部屋に出来たあの大きな傷跡を思い浮かべた。その可能性は僕も傷を見た時にちらりと考えたが、そも状態変化は下忍では使うこともできないような技術である。下忍以下、その辺の少女、もしくはそれ以下のなまえにそのような高度なチャクラコントロールが出来るはずがないのである。
「その可能性を否定してもどちらにしろあの傷の説明がつかないでしょう」
……それも確かだ。ということはみょうじは状態変化の存在を知っていたというのだろうか?いや、それより、彼が言う事が真実であるとするのなら、たどり着く答えはひとつしか無い。
「ちょ、ちょっと待ってください。では、まさかなまえがそうだとでも?」
「ええ、みょうじとしての記憶は無いようだけど私には分かる」
「一体どんな術を使って……! 同体への転生……? そんな馬鹿な」
「面白いでしょう。あなたも多少は興味が沸いたんじゃない? ……だからこそ、私はあの子を生かしてるの」
本当にそれだけの理由なのだろうか――。彼は僕の手元にある写真へと視線を落とした。その瞳は、きらきらと輝いてはいたが、そこにあたたかみのようなものを感じることはできなかった。
*
「ところで、カブト。今度はいつ木の葉に?」
「……明後日には」
「そう……それまでにあの子の体、なおしといてね。あの子にはまだ生きていてもらわないといけないのだから」
「……了解いたしました」