「いいなぁ、索は。もうかけっこできるようになったんだ」
いつでも鮮明に思い出す。この世で二番目に嫌いな人の声。あどけなくも憎らしい、たった一人の――。
*
その記憶は最早朧げで、これまで生きてきた時間に比べればほんの一瞬のことだった。それまでと、それからの今までと、比較対象にも出来ないくらい淡い淡い思い出だ。でも確かにあった事実で、だからこそ今も私を苦しめる。
どれだけ忘れようとしたって忘れられない。どれだけ歩みを進めようとしても私の足はその過去に絡め取られて動けない。天秤が傾くのはいつもその僅かな記憶の方で、それ以外のことは全て連なる付属品に過ぎないのだ。
「おかえり……ん、少し裾が汚れてるぞ」
抑揚の少ない声色は、いつも下から聞こえてきていた。それを不思議に思うこともなく、泥水で僅かに汚れてしまった裾を摘みあげつつ、彼の声に耳を傾けるようにしゃがみ込む。
「かけっこ、楽しかった?」
身体も心も、お互いにまだ人間として未熟だった。だからそこに含まれる感情に、彼自身気付いてはいなかっただろうと今なら思う。私だってそうだ。
「また喜助に勝てなかった!」
「でも索が女の子の中じゃ一番はやいんだよね? すごいよ……」
兄は生まれた時から体が弱かった。
少しだけ遅れて生まれた私よりも腕は細く、女である私より力も弱い。走ることも出来ず、大きな声で笑おうとすれば咳き込んでしまう程。
そんなだから、1日の殆どを布団の中で過ごし、家の外へと出ることは殆どなかった。兄の楽しみは私と遊ぶことだけだという。
私もまた、殆どは家の中で兄と共に過ごしていた。くだらないことをお喋りして、玩具で遊んだり、暇故に兄の横をごろごろと転がって母に怒られたり、そんな日々だった。
本当のことを言うなら、私は外で遊ぶほうがずっと好きだった。同じ年頃の友達と走り回ったり、雪をぶつけ合って遊ぶほうが好きだった。ずば抜けて運動神経が良かった訳でもないが、それでも家の中でずっと本を読んだりあやとりをすることの方が酷く退屈に思えた。家でずっと積木を転がしたりあやとりをしているのは酷く窮屈で。
だから私を家へと縛り付ける兄も、それを望む父と母にも正直なところうんざりしていた。心底、心底。
――浅はかだった、と今なら思う。
「お前は俺とちがって体がじょうぶだから、転んだって泣かないもんな」
「……お兄ちゃん私が転んだところ見たことないじゃん。どーせ転んだって来てくれないし」
生意気な妹だったから、きっと可愛くないと思われていたに違いない。でもその頃の兄は、一度だって私に対して怒りをむけたことも手をあげたこともなかった。少しだけ眉を下げて、決して声を荒げることなくただひっそりと笑う。少しだけ悲しそうな、それよりも寂しげな色をのせて。
「……俺もいっしょに遊べたら、よかったんだけど」
誰も掬い上げることの出来ない言葉が、あの家にはいくつも転がっていた。私だけでなく、父や母の周りにだって。足も今よりはるかに短い頃だ。私はそれらに足を捉われている気すらしていたのに、もうあの場所には何も無くなってしまった。けれど、今もなお縺れてしまうのは、最早呪いといっも等しいのではないか。
帰る場所も消化する方法も分からない。影も形も無くなった代わりに、ただただ記憶の中に転がり続ける。
それは、鳥が食物を胃の中の石で磨り潰すように、新たな記憶をもすり潰して、私の中に残り続けるものだ。
ある日、私は異様な男に出会った。友達と遅くまで遊び、日もすっかり落ちてしまった時のことだ。
白い帽子と衣服、その白さに負けないほどの青白い肌。綺麗な顔立ちをした男だった。
私の住んでいた村は昔から冬になると脚首まで積もるほどの雪が降る。その雪の白さに似た肌色。そして、兄のそれにも似ていた。
「……おにいさん、そこに立っててさむくないの?」
だからだろうか。ぽつりと佇むその男に声をかけてしまったのは。
――今となってはその時の自分を殺してでも止めたいと思う。
最初は私を黙って見下ろしていた男だったが、「君は誰かな、お嬢さん」と、少しして真っ赤な瞳を細くして笑った。雪兎のようだ、と。その時に彼の瞳の色が初めて私や親とも違うことに気付き、少し怯みつつも、知らないものに対する興味と興奮が胸を支配していたことを覚えている。
男はただ静かに私の口から発せられる言葉を聞いていた。父親でもない大人の男に対して自分から喋り続けたことはそれまでなかったのでないだろうか。あったとしたら、付き合いのよかった使用人の男くらいだ。しかしその男は彼等とは比べ物にならない程、ただただ私の言葉を、感情を吸収する。喋るつもりもなかったことまで、ずるずると引きずり出される感覚。声だけは優しかったのだ、その裏も読めない子供にとっては。
「君のお兄さんは身体が悪いのかい?」
「ずっと前からだよ」
「あぁ……一緒に遊べなくて残念だね」
「お兄ちゃんとはいつも遊んでるよ。……でもおともだちとあんまり遊べない」
「そうか、そうか」
結果として、私は、その男を家に招き入れてしまった。兄に会わせてしまった。
いつも庭を掃除している使用人の男が、彼の進入を少しばかり引き留めたが、記憶を辿れば自らを医者だとか宣っていた男だ。近所では裕福な家だったから、その時点で兄のために出来うる限りの手を尽くしていた父と母も、熟考の末に彼を受け入れた。生憎、部屋にも余裕があったし、何をしてでも息子を治したいという一途な親心だったに違いない。
終わりの始まり、雪と血の記憶。私の犯した過ち。
――全ては私のせいだった。
濁りの一切無い白い髪、血色の失せた肌。まるで別人のようになってしまった兄を見た時は、驚愕はしたけれど、自分のせいだとはまったく思わなかった。まだ貧弱な脳味噌しか携えていなかったから、その姿とあの男、そして自分へと点と点が結びつかなかった。
何より、それが悪いことであるという認識もまだなかったのだ。――だって、兄が今まで見たことが無い程に喜んでいたから。
兄はすくりと立ち上がって私の手を取った。私はただゆらゆらと兄の力で揺れる両手をじっと見ていた。いつも私から兄の体に触れたり、揺すったりしていたから、とても不思議な気分だった。大人であり諸々の思考の余地のあった両親は、当初かなり動揺していたものの、私達のそんな姿を見て泣いて喜んだ。
そこでふと気付く。兄の目を見上げるのは、随分と久しぶりのことだった。兄の目は、白兎のように赤い。――あの男と似た紅い色をしていた。
兄は以前とは打って変わって体が丈夫になった。歩いても倒れないし、重いものも持てるし、何より咳をすることがなくなった。たった一夜の出来事であったのにも関わらず、目覚ましい回復。今まで何人の医者に診せても、薬を幾度も変えても治ることはなかったから、事情を知らぬ使用人は、一人で自由に歩き回る兄に腰を抜かした程だった。
けれど、全てが自由という訳ではなかった。白服の男は「太陽の光だけは絶対に浴びてはいけない」と言い残していったのだ。奇妙な後遺症であったが、奇跡のようなことが起こった後だ。父さんも母さんも、戸惑いつつも、兄を日光から守ろうと努力した。
誰もが、これで全てが良い方向へ進むのだと、そう思っていた。
兄について変わったことがもう一つあった。あまり眠らなくなったのだ。何で寝ないのか、眠らなくて平気なのかと私が尋ねると「今までずっと布団にいたんだから、もう眠たくないよ」と笑う。少し羨ましいと思ったのも束の間、私は毎夜のように兄に手を引かれ遊びに付き合うこととなった。
余程外を自由に歩けるようになったのが嬉しかったのだろう。月夜に照らされる白い庭に無数の足跡を残していく。しかし私は眠いのだ。“通常の”子供の体力を考えれば当然のことである。ぐずる私の手を掴んで、外へ駆け出す彼の背中。父と母には気付かれないように、音を忍ばせて。
日に日に強くなっていく兄の力に、一度だけ「ちぎれそうだ」と泣きついた。兄は少しだけ目を見開いて「痛いの?」とさも不思議そうに言った。
「もう帰ろうよ……」
「索は強いんだから大丈夫だよ」
だからもう少し遊ぼう、遊ぼう、と。真っ赤な舌を見せて笑う。まるで今までの時を取り戻したいと言わんばかりの、必死さで。
――悲しい人。ずっと一緒にいたはずなのに、初めて生まれたみたいな顔をして、私を見ている。
月夜の下で見るその白髪に、初めて恐怖を抱いた時だった。
*
地獄のはじまりはそれから数日の後。
その日は珍しく、父が「外で遊んできなさい」と私に告げた。兄に合わせて不規則な生活になっていたため、友達と遊べる機会がすっかり減っていた時に入ってきた吉報だった。別に疲れていたって勝手に遊びにいっても良かったのだが、そういう日の夜程、兄からの拘束が長くなるという法則をなんとなく理解しだした頃だった。兄は日の元には出て来ないし、都合の良い言い訳ができたと私は喜び勇んで外に飛び出した。
けれど、その日はいつもより少し早めに解散した。友人の一人である喜助が派手に転げて足を怪我をしたからだ。彼は年の離れた兄に負ぶさられて家に帰っていった。他の友人もちらほらと火の灯った我が家へと帰っていく。親兄弟が迎えに来るものもいた。その様を見て、私が何を思ったのか。思えば、父や母が自分のことをする時以外、兄につきっきりなのは、ずっと変わらないことだった。
そんな私によって、その光景はただ酷く印象的で、影が傾く程度にはその名残をじっと見つめていたように思う。
冬は日が落ちるのが早いため、とうの昔に空は紫がかっていた。その頃になると今度は兄が動き出すのが分かっていたから、家に帰るのが億劫になっていたことは否めない。
ふわりと風に乗って届いたのは鉄の匂い。それが何か子供であった私に分かるはずもなく。対して気にも留めず戸を開けた。帰って来た時に一番に「おかえり」と声をかけてくれる使用人の男が庭のどこにも見当たらないことに、その時は気付かなかった。
土間に足を踏み入れる。誰の声も聞こえず、夕餉の匂いもしないなんてことは、これまで一度だってなかった。少なくとも直近の部屋に灯りは灯っていなかった。もう月も出だしたこの時間にそんなことは通常あり得ない。思えば辺りは夜とはいえ異様な程に静かで――子供ながらにあらゆる事象から、ここにきてようやく不安という感情を汲み取った。自分の心音すら聞こえそうな程の静寂。「皆出かけてしまったのだろうか?」と僅かな希望に心を揺らして。そして思い至る。
兄なら、いるはずだ。そう思った私は、兄の部屋へと向かった。
そうして視界に飛び込んできたのは、月夜に照らされた銀と赤。
二つの人影が見えた。床に転がるのは二つの影。
見覚えのある、着物。いや、この家にいるとしたら、それしか考えられない。
「ひっ……」
衝撃のあまり声を失うとはこういうことを言うのだろう。
体の、体の震えが止まらない。顔を上げられないが、しかし下を見ていたくもない。私の足元に転がっていたのは――父だった。そしてその向こうに倒れているのは、母だ。事実としては理解できても、感情がそれらに追いつかない、何を言えば、何をすればいいのか分からない。正直、その時点では父や母がとうに事切れてしまっていることも分からなかったが、ただ普通ではない出血の多さと辺りを取り巻く陰鬱とした空気に、本能的に体が事実を受け入れることを拒否していた。
思えば、そもそも「人間の死」に向き合うのが初めてだった。まだ幼い脳味噌で、理解することはおろか、この惨状を処理しきれるはずがなかったのだ。
「――誰?」
抑揚のない声。兄の声だ。母の体の側、縁側に腰をかけている。
「……っお、お兄ちゃん。おと、おとうさん、おかあさんは……? どうしたの……? どうなったの……?」
「おに……? あぁ、あの小娘か」
私の返答に対して帰って来たのは、また別の声。もう一人は、あの白服の男だった。
紅い双眸がこちらを見つめている。なんの感情も乗っていないそれが、冷たい刃のように私に刺さる。疾くにこの町からは去っているものだと思ったのに、何故ここにいるのだろうか。
瞬間、鉄の匂いが強くなったのを覚えている。次に感じたのは体中を走った“痛み”。凍るような空気の中で、右肩だけが燃えるように熱い――。
突然の痛みと衝撃に、唇は空を求めるように開閉するばかりで、音を乗せるだけの力が出ない。液体が床に垂れる重たい音が、不規則に響く。思い返してみればその傷はまだ序の口にすぎない浅い傷ではあるものの、小さな体で耐えきれるものではなかった。世闇に響く叫び声。まるで自分の声だとは思えなかったし、これが事実だとも思いたくなかった。
「無惨様」
「この小娘にも、顔色のことを言われたことを思い出した。だから殺す。……それとも、お前がやってみせるか?」
「……」
「言ったろう、累。お前はもう鬼なのだ。人間は殺せ、そして喰え。お前は少しばかり他の鬼より与えた血の量が多いのだから、その分私の役に立て」
「でもそれは、俺の……僕の妹です。“たった一人”の家族……」
「…………ふ、はは! ははは!! 面白い。尚、そこに縋るのか。……だが、累。気に入ったぞ。お前のその一途さはやがて私を愉しませる程の歪みとなるだろう」
二人が話していることを、理解しようとするだけの余裕などどこにもなく。私はただ床に倒れ込み、同じような姿をした父の背を見つめて泣いた。
「好きにしろ。だが、精々しっかりと躾けておけ」
「じゃあ、索。今日も遊ぼうか」
兄はそう言って転がる私の手を取った。べちゃり、と濡れた感触が手首に纏わり付く。痛みと恐怖で、呼吸が、うまく出来ない。乾いた音が喉から漏れる。その様すらも、楽しそうに兄は見つめていた。
*
何日、あの家で過ごしたのか分からない。最初のうちは、男からつけられた肩の傷の痛みで殆ど失神していた。血の失せた体で力も入らない状態だったが、奇跡的に血が固まり、出血死する事はなかった。いっそのこと、感染症にでもかかって事切れていた方がずっとマシだったと、今なら思う。
夜になると兄はどこかへ出かけていく。父さんと母さんの体も、どうしていいか分からず、そのままになっていた。見るに耐えない状態になって、思考を閉ざすように、その部屋に入ることは無くなった。使用人の姿はどこにも見当たらなかった。
きつい刺激臭が鼻を刺す。それが周囲から来るものなのか、自分自身から来るものなのか、それとも兄からなのかも分からないほどにこの家に充満する惨鼻の極み。目を開いても辺りは赤黒く染まっている。壁も、畳も、全部。兄が日毎、血に濡れて帰ってくるからだ。
私は、潜在的な自己防衛本能から、時折五感をも閉ざした。途切れ途切れの記憶がその証明、それしか自我を保つ術を持っていなかった。食欲がないから口を閉ざし、何も見たくないから目を閉じる。匂いも感じられないし、自分の指の感触もない。刻々と進む時計の針とともに、諦念が雪のようにただただ積っていた。
けれど、どうしても兄の声だけは、どこにいたって耳を塞いだって私の横に降ってくる。いつまで経っても忘れることなどできないのだ。
――今日は何をしよう?
――あやとりか、鬼ごっこか?
――ねぇ、お前は何がしたい?
兄が家にいる時は、以前と変わらずいつも私と遊ぶことを願った。私が意欲を見せない時は、その力で無理やりにでも私を動かしてみせた。まるでお人形のように好き勝手に私で遊ぶ。その顔は今や憎らしい程の笑みで溢れていた。
日に日に痩せ細っていく私を見て、彼は不思議そうに首を傾げる。次第に、家には家族以外の“躰”が増えるようになった。その意図を考えることすらも頭が拒否していた。兄はますます不思議そうに私の顔を覗きこむ。私の痩せた頬をつつく。もう何にも反応したくなかった、このまま◾️◾️◾️しまいたいとすら思っていた。
のに――。
「索、いるかー?」
声が、した。
兄以外の声だった。何日ぶりだったのか。何ヶ月ぶりだったのか、正確な時間すらも分からない。
ともだち、喜助、のこえだ。
その声に縋りつける程の希望さえ、もう私の中には存在しなかった。
体が反応したのは兄の方が先だった。立ち上がり、土間の方へと向かっていく。その時、自分の心臓の音を久しぶりに聞いた。ばくばくと、次第に大きくなっていくのは音だけではなく、予感もだった。瞬時に冷ややかな空気が背中を撫で、体を震わせた。
体を引きずり、這うようにして兄の後を追いかける。その最中にぶつかる“もの”や触れる液体には意識を向けないようにして、ただ焦燥感のまま突き進む。
「累か? お前、その髪……いや、家から出て大丈夫なのか?」
廊下の向こうから聞こえたその声は、確か喜助の兄のものではなかったか。首になんとか力を入れて上を見上げる。兄よりも一回り背丈のある青年がそこに立っていた。そしてその後ろには喜助がいた。どちらも、出迎えた少年の、変わり果てた見た目に僅かに不安の色を滲ませた目をしていた。
帰りが遅くなる度に弟を迎えに来ていたような人だ。一人で町外れの家に弟を向かわせるはずがなかったと、今ならその道理を理解できる。けれどその時の私はそれが誰であろうと関係なく、ただ「この先起こる」ことを本能のままに理解してしまっていた。
「……め、て」
擦れ潰れた声は虫の羽音にも劣るほどの非力さで、ここからはまだ彼等の耳に届かない。
墨汁のようなしっとりとした闇の中に立つ人影が微かに見える。私の目が閉じていようが開いていようが、火を灯す人間がいなくなった今、陽の光でしか足元を判別出来ないほどに薄闇に覆われているこの家で、微弱な光を放てるものは月しかない。予測するに日は落ちた後――。
「近頃、町で人が消えてるの知ってるよな? 最近顔見せないから、喜助が心配になってて
「……喜助……?」
「今ご両親はいる?」
「喜助……あぁ、体がつよい……」
質問とは全く関係のないことを呟いている兄に対し、青年は怪訝そうに首を傾げ、更に顔を覗き込もうとした。
「な、なぁ。にいちゃん、なんか、匂わない?」
「え? あ、そ――」
兄の、着物の袖口がぬらりと光る。その時、彼の物が、“真っさらな白色”ではなく所々に赤黒い模様が描かれていること、微かな光に照らされた彼の指先もまた同様に色付いていることに、その場にいる者全てが気付いてしまった。
「ぁ……、て」
もう一生立ち上がれなくてもいいと思った。立ち上がれなくていいから、今残ってるだけの僅かな気力と体力を絞り出して、腕を伸ばす。声をあげる。ほんの刹那、それしか選択肢が無かった。
「――やめて! っお兄ちゃ、ん!!」
飛びつくように腕にしがみつく。その白く細い腕は、見た目は以前と変わらない。それなのに、まるで私などいないかのように軽々と振り上げられた。事実、私がいてもこの現実は何も変わらない。変えることができない。
理解はしていたつもりだが、私より力の弱い兄など、もうどこにもいないのだ。
異様な程に鋭利な爪が、青年の腹を貫いた。生暖かい何かが、私の頬にも飛び散る。いつかも聞いたような叫び声が響いた。いや、本当は、意識しないようにしていただけで、いつだって聞いていたのではと錯覚する程に、やたらと耳に馴染む残酷な音――。
「ひっ……、…ぁ……にいちゃん……?」
「き、すけ……逃げろ……」
その時になって、やっと「あぁ、ここが地獄なんだな」と気が付いた。
*
ねぇ、と随分と近くから声がする。肩が重い。何とか首を動かすと、兄の頭がすぐ横にあった。目玉だけを何とか動かしまわりを見渡す。覚えのある形の木々。いつかの日以来足を踏み入れることをしなくなっていた縁側。見たくないものを見てしまう。そう察して殻に籠るように体を丸めた。黒く染まった畳が軋む。
兄はあやとりをしていた。奇妙なことに、その糸は彼の指から出ているように見える。私の目はとうの昔におかしくなっているに違いない。
「さっきの、見た? 兄が弟を守ってた……あれが”キョウダイ”なんだよ、索」
ずり、と兄の髪に付着したものが私の着物に移り染み込んでいく。ずっとこうだ。私は何もしてないのに、何もできないのに、兄と一緒の色に染まっていく。いや、そもそも、“これ”は一体だれのものだ? 一体だれのいろ?
ああ、どうして――。
「じゃあ、妹を守るのも、兄の役目だよね。……嬉しいなぁ。僕は今お前を守った。今の僕なら、索を守れる。ずっと一緒だ」
兄が喋ることなどもうどうでもよかった。そう思っていたのに、今はそれまでと明確に違うものが私の中で生まれていた。親の死とともに消えてしまっていたと思っていた、何も無かったはずの場所に新たに生まれた感情。ふつふつと煮えたぎるように、胸の内から湧いてくるもの。
「きょうだい……? まもる……?」
明確な、嫌悪、拒絶、怒り。まだ名前も知らなかった感情が濁流のように渦巻いて私の体を駆け巡っている。寒さやら恐怖などの外的要因以外からくる震えを感じたのはその時が初めてだった。
いつだってそうだ。この人は私から奪っていく。父さんも母さんも友達も、皆この人が奪っていった。私の時間も感情も、何もかも奪っていった。
子供でもわかった。全部全部もう帰ってこない。みんな壊れた人形みたいに地に伏して、もう一生動くことはないのだ。こんなにひどいことが、他にあるはずがない。
いや、でも――私自身、兄の人形なのかもしれないという事実の方が、余程。
「……らい」
「……聞こえないよ、何?」
「嫌い」
「……え?」
拙い言葉でしか表現できない感情。けれどそれが全てだった。
「嫌い、嫌い、もういやだ……。お兄ちゃんじゃない、もうお兄ちゃんじゃ……」
「……今まで、そんなこと言ったことない」
「いや……」
「いやじゃない。妹なら、妹なら僕の言うことを聞いていればいいんだ。あの人もそう言ってただろ」
――ほら、血が繋がってる。僕らは家族なんだよ、大事にしなきゃ。
そう言って兄は血に濡れた手を私に絡める。とてもとても強い力。握りしめるなんて可愛いものじゃない、握りつぶすかのような過剰な圧力。指に糸が巻きつき、締め付けるように螺旋を描いていく。
あぁ、「ちぎれる」。そう思った。
「おまえなんかしらない、こないで」
かすれ声、しかししっかりと彼の耳に届くように喉の奥から絞り出した。
空気が、なくなったような感覚。ぱちりと目を瞬かせて、そのままじっと私を見つめていた兄は――綾木累は、は、と一度だけ短く息を吐いた。
「なんで、なんで、そんなこと言うの……! 索、お前も、お前も……! おまえ、も……? ゥグァ……!」
頭を抱え苦しみ悶える姿を、今度は私が静観していた。肩で息をする程に興奮した様子の兄を見たのは初めてで、ただ単純に物珍しかった。
「か、かぞく……妹……! 妹じゃ僕を守れない、僕を愛さない……!」
――『イモウト ナンテ イラナイ』。
獣のような声だ。真っ赤な瞳に、僅かに光るものが見えた気がしたがきっと気のせいだ。だってそれはあなたのものじゃない。
気付いた時には浮遊感とともに、強烈な圧力によって首を絞められていた。どこまでも広がる網目状の糸。まるで蜘蛛の巣のようだった。
最後の一瞬に巡ったのは、弱弱しくも緩やかに笑っていた兄の顔。父さんや母さんと一緒、全部全部もう帰ってこない。
闇を裂き響いたのは、甲高い音。
そして、風を斬るような重い、重い、唸るような音だった。
鎹烏に連れられてやってきたのは、町というには些か小さく、雪に消えてしまいそうな程に静かで寂しい場所だった。それが本来の姿では無かったのかもしれないと思ったのは、全ての住人が既に鬼に喰われた後だったと判明してからだ。蹲み込んでみれば、遠目に真っ白に見えた町も、建物の影では闇の中にどす黒い影と醜悪な匂いが残る。刀を握る腕が、ただただ震えた。
鎹烏の伝令は決して遅くはない。各地を常に飛び回り情報を収集し、より近くの地域にいる隊士へと情報を共有する。それでも今回間に合わなかったのは、鬼殺隊に悟られる“とうの昔”から少しずつ鬼の被害を受けていたのか、その鬼が身を隠すだけの知力と能力を持っていたかのどちらかだろう。認めたくは無いが、転がる死体の状態の差異から察するに、おそらくどちらも事実なのだろう。
そして、俺の実力もまだ未熟だった。一瞬だけ遭遇した白い鬼は、今まさに少女を襲おうとしていた。俺の刃は、既のところで鬼の首に届かなかった。少女と鬼とのあまりの近さに僅かに怯んでしまったのもあるが、見えない何かによって刀を抑えつけられたような感触があった。自分で自分が腹立たしい。先に鬼と遭遇したのは俺なのに、結局また、匡近に助けられる形となってしまった。
「住人はほとんどやられてる……一部は血がまだ新しいから、もしかすると一度にやられたのかもしれない。広範囲の血鬼術を使う異能の鬼なのか……?」
「チッ……クソッ! 逃げるならただ逃げろよ!! 何で殺していく必要が……!」
怒りのままに拳を地面に叩きつける。鬼のやることに道理を求めるほうが愚かだと理解はしているつもりだった。
いつもそうだ。鬼への怒りで気が狂いそうになる。腹の中で日々蓄積していく鬼への怒りと憎しみでどうにかなりそうだった。出会う鬼全てをぶった斬っても収まることがないのに、よりによって、今回は逃がした。
「……実弥、俺が鬼を追うからその子を頼めるか? ……間に合えばいいが」
「は? おい、一人で……!」
「すぐに鎹烏を飛ばすから!」
匡近はそういうと、颯爽と木々の中へ駆けて行った。恐らく階級が俺より高い他の隊士達も颯爽と後に続いた。
匡近……あいつは俺の中で起きた些細な異常にきっと気付いたに違いない。剣の腕も見極める眼力もまだあいつの方が遥かに上だ。だからこそ、一人で行かせてしまった。自分の情けなさと惨めさが、雪とともに両肩に募っていく。
――力なく項垂れる少女の姿が、弟や妹達の姿と重なった。そんな言い訳の元を思い浮かべてしまう程度には、俺はまだまだ鬼殺隊として未熟だった。
ふと視線を下ろすと、腕の中には微かな重み。
軽すぎる、と思った。そうであってはいけないのに、あまりにこの命は軽すぎる。人形のように全く瞬きをする気配のない少女の眼前に手を伸ばす。かろうじて呼吸は出来ているようで、柄にもなく息をついた。そして――ああ。
どこも彼処も汚れきって、随分と痩せこけていたが、何故この少女だけが無事だったのか、顔を見て理解してしまった。
一瞬の鍔迫り合いだったが、分かる。髪の色も、目の色も異なるが、あの鬼と同じ顔立ちをしている。認めたくはなかった。俺だけは認めたくはなかったが、恐らく、あの鬼の血縁だからこそ、“後回し”にされていたのだろうと推察できた。けれど結局鬼は鬼だ。血縁であろうと愛したものであろうと、最後は自分を忘れ血肉欲しさに牙を立てる。そういう生き物だ。俺はそれを身をもって知っている。
「……これ、お前の父さんと母さんか」
とうに腐敗してしまっている二つの仏。衣服を見るに成人の男女。ここに来るまでに見かけた遺体とは異なり、外傷はあれど鬼に喰われた様子はない。正直なところほとんど勘だった。
「もう違う」と、闇に溶け込むようなか細い声で少女は言う。顔も上げずに、ただじっと俺の肩口のあたりを見ている。その様子を見て、どうしようもない程の無力感に包まれた。
「埋めてやるよ、一緒に……」
「……」
「――あァ……そうだな。墓のことなんて分からないわな」
背中を抱く手に力が籠る。硝子のような脆さ、弱きものの姿。なんて無情な世界なのだろう。
「なぁ。……兄が、憎いか?」
「にくい……?」
「どう、思ってるか…………ってクソ、何聞いてんだ俺ァ」
光を通さない無知な瞳に、はじめて俺の顔が映った。
「きらい…………」
「あ?」
「こわい、嫌い、会いたくない……お兄ちゃんじゃない」
その言葉を聞いて、どこかほっとしている自分がいたことに気付きたくはなかった。
「……それを憎いっていうんだよ」
「でも――」
続く言葉を聞いた時、俺は自分の胸を刺されたような鋭い痛みを感じた。「醜い、何を考えているんだ俺は」と瞬時に先ほどの思考を悔いた。
頭に廻ったのは共に生き長らえながらも袂を分かった弟の顔。俺は、この少女を通して何を求めていたのだろうか。玄弥がこいつと同じはずがないのに。
掌に落ちてきた雫を、ただそのまま握りしめた。皮膚に染みこみ、とうに消えてしまったはずのものを、俺は、時折自分の手を見るたびに思い出す。
あの日以来、綾木索は涙を流さない。
*
「気付いたんです。家族と、兄と過ごした年月より、兄を恨んでる年月の方が長くなってしまったこと」
「……」
「同時に、師匠といる時間も随分と長くなりました」
正座のままゆっくりと頭を下げる。
「実弥さん、今まで育てていただきありがとうございました」
いつかの日に私の姿勢の悪さを叱った人は、片膝を立てて尊大な様子で肩肘をついている。こちらを睨みつけるようにじっとりとした視線を投げてくる様は、少しばかり拗ねた子供のようにも見えると思った。
「ハッ……嫁に行く前みてェな言い草だな」
「行く予定なんてありませんから」
「死体で帰ってきたら俺がこの手でぶっ殺すからな」
私の師匠は不器用な人だ。言葉は悪いし手癖も足癖も悪いが、それでも奥の奥に私などでははかり切れないほどの悲しみと慈愛を携えている。日毎増えていく傷跡に、何かを後悔するように閉じる瞼に、その全てを押し込んで、強くあるために忘れたふりをする。ひどく不器用で、故に分かりやすい。それがいっそう羨ましくも思う。
「死ぬとしても、それなりに足掻きます。一体でも多く鬼を斬ります」
私が鬼殺隊に入りたいと言ったときも、三月は首を縦に振らなかったほどの人だ。たとえ私が生きて戻ったとして、それでも彼は私を継子にするつもりは毛頭無いだろう。それがこの人の優しさなのだ。
私自身、これ以上彼の足枷になるつもりはなかった。私がここを発つ暁には、私達の関係は切れるべきだと考えている。私はただ、ひとつの目的のために生きるのだから。
「では行ってまいります」
この日までの全てを燃料にして、私は今ここにいる。やっと、時が動き出したようなそんな清々しささえ感じるほどの、身の軽さ。
元より、何かを与えられたり、抱えられるほどの空白が私にはない。私の腹の中にある空洞には、今もあの地獄の日々が燃え続けている。実弥さんのように、私はなれない。
私がこの世で二番目に“嫌い”な人、そして一番嫌いなのは、あの男――鬼舞辻無惨。
例えこの身が切り刻まれても、燃え尽きても、人間としての生き方を捨ててでも、家族の仇をとる。「家族」としての責任をとる。実弥さんに、父と母に、あの日誓ったのだ。
最終選別、私は絶対に生き残ってみせる。