Something That I Want
随分と聞いていなかった声、だけど今まで一番聞いた声だ。それがすぐに“彼”のものだと分かった。自らの耳よりも、彼の口を塞ぐことの方が先だ。
「……なまえ?」
「ね、姉さん……?」
最早背景のひとつとなった男が低く呟くのが聞こえる。
“彼”はその深碧の瞳を輝かせたまま、大して何も考えていないだろう頭を振ってこちらに一直線に駆けてくる。ご丁寧に両手まで広げて……私はその猛進を避けることなく、向かってくる彼の顔(メンツのために補足すると口元)目掛けて右手を伸ばした。
ぱん!と嘘みたいに見事な音とともに私の掌に彼の顔が沈む。驚き見開く瞳は行き場をなくした両手を交互に見やり、少しだけ残念そうに肩を落とした。本当はラリアットでもしたい気分だったが、流石に彼に対してそんなことは出来ない。
「んんん」
「失礼、怪我人もいるので静かにしてもらわないと困るので」
久しぶりにじっくりと見る顔だ。よく似た誰かならまだ良かったのに、こうも近くで現実を見せられると否が応でも受け入れるしかなかった。
――また少し背が伸びただろうか。再会が今この時この場所でなかったのなら、少しは喜びを分かち合えたのかもしれない。
一呼吸置いて、手の中でもごもごと喋ろうとしている彼を目線で制す。極力人の良い笑顔になっていることを祈りつつゆっくり、かつ周りの人間に聞こえるようにはっきりと口にした。
「今、姉さんって言ったよなコイツ……」
「いやいや、てか姉さんってそれって……」
「みょうじ先輩が姉さん……? ん、んん? どういうことだ……?」
「……チェカ、腹を蹴るな。大人しくしてろ」
なんかキングスカラー先輩の上で飛び跳ねる小さい子供が見えるが、おそらく幻覚だろう。
「んー!」
「……“俺”は貴方の姉などではないので人違いじゃないでしょうか」
「あれれ、みょうじ先輩が俺って言ってんの初めて見た」
「黙れユウ」
本当は青筋経っててもおかしくない状況なのに、こんな時だけジャミルの厚い面の皮が羨ましく思うなんて。
「んんんっ……はぁ! みょうじ?!」
私の手を押し除けて、また大きな声で驚きを表現する彼を見て、ただただ「やっぱラリアットにしときゃ良かったな」と淡々と思う私が脳裏にいた。
「そう、みょうじ。どこのどなたか知らないがあまり保健室で騒ぐのはやめてくれませんか。お姉さんを探してるのなら連絡をとってみれば良いのでは……ここにはいないので」
即座に腕を掴んで部屋を出ようとするのに、なぜか彼はそれを拒んだ。珍しく少しだけ怒ったように眉を吊り上げて私に対抗する。
「……何言ってるんだよ! ひどいよ、着信拒否にマジカメブロックして! たっくさん送った手紙もひとつも返してくれないくせに!」
後ろで「めちゃくちゃひでぇじゃんなまえ先輩」等と言ってるエースは完全に面白がる方向にシフトしたと判断したので後で覚えてろ。いいね爆撃と鬱に理解のない〜的なクソリプの応酬を受けてから言って欲しい。そもそもマジカメも興味ないって言ってるのに、アカウントも無理矢理作らされただけでほぼ稼働してなかったじゃないか。
ちょっとだけ同情したような目を向けてくる男がいるが認めたくないので気づかなかったことにする。ラギー・ブッチだけが、どこか腑に落ちたような顔をしていた。その理由は察することが出来たが今はそんなことを気にしている場合ではない。
「ッスゥーー……。……酷い姉もいたもんだね、しかし私は貴方の姉じゃないんだ……RSAの生徒とは口も聞きたくないから早く失せてくれない?」
「流石に怒るよ姉さん。……でも久しぶりの喧嘩も楽しそう!」
「喧嘩が好きなんで随分と育ちが悪いんですねぇ」
「それみょうじ先輩が言う?」
「黙れエース」
「こうなったらグルグル巻きにしてお父様のところまで連れて帰ろう。姉さんがそのつもりなら僕だって本気出すしか」
そう言って、彼は後ろ手に自分の髪に触れようと――。
「あああああああ馬鹿!!!! やめろ! ここで髪を下ろすのは!!!! 分かったから!! やめて!!!」
――負けた。終わった。
もう終わりだよ、何もかも。ユウ達と複数の怪我人生徒に見つめられる中で、私は負けを宣告するしかなかった。
「それがどれだけ、どれだけ貴重で特別なものか分かってる……?! 私が父さんに殺されるでしょうが……!」
肩を掴み顔を寄せ、極力周りに聞こえないような低く小さな声で吐き出す。我ながらまるで呪詛のようだ。
「……二人で話しましょう、“フェルト”」
親指で後ろのドアを指す。彼は何かを口にしかけたあと、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せて頷いた。
「体育館裏に呼び出す時のアレじゃん怖……」
「本当にあとで呼び出されるのはお前だぞエース」
*
扉を閉めて、彼の手を引いて人通りの少ない通路へと移動する。窓からは月の光が差込初めている。こんな時間に、この場所に、この手の先に彼がいることが夢のように思えた。いや、夢であってほしかった。
「はぁ……今の一瞬でこれまでにないくらい疲れた」
「やっぱり姉さんだ。声も魔法で少し弄ってるのかな」
「疲れた時の声で判断するの何かショックだからやめて」
「そう言う訳じゃ……でもどんなに繕ってても分かるよ。マジフトの試合で見つけた時からさ」
メディアも多数取材に来ているような大会だ。誰が見ていてもおかしくないし、間接的に父に見てもらえればいいとは私自身思っていた。しかし、まさかあの場に国の人間、それもフェルトがいるとは思ってもいなかった。
「そもそも、そもそもよ……何で貴方がロイヤルソードアカデミーの制服を着ているわけ?! 学校には行かないって、王が国から出してくれないって、髭が奇妙な家庭教師がいるとかなんとかって手紙に書いてたじゃない!」
「なんだ! 本当は手紙を読んでてくれたんだ。でもごめん。あれね、全部ウッソ」
自らの表情筋が瞬時に死んだのが分かった。
「……質問に答えてフェルト。思わず手が出ちゃいそう。王子でも顔面はセーフよね? そういうルール確かあったわよね?」
「今年から一年生になったんだ。お父様は何とか説得して……へへ、これを話すとまた長くなるんだけど……。……姉さんだって隠し事してたんだから、おあいこじゃない? サプライズするこの日をずっと待ってたんだ!」
「……私、サプライズって言葉大嫌いって何年か前の誕生日で言ったはずだけど」
こめかみがものすっごくピクピクしてびっくりしちゃったな。屋上へ行こうぜ……久しぶりに……キレちまったわ。屋上開放されてないけど。
そう、これがただの男なら、とうの昔に引きずり倒していた。しかしそんなことできるはずがない。彼はその辺の奴らとは違うのだ。
「……国王の許しを得てここにいるのよね、フェルトザラート」
『フェルトザラート』。私の故郷である太陽の王国の王子であり次期国王。ナイトレイブンカレッジに入るまで、私が幼少の頃から仕えていた存在。
彼は真の意味で国の宝だった。髪に傷でもつけたら、いやその真の価値を他国のものに知られたら、どうなるかなど私はこの十数年でよく理解している。侍女として仕える際に、国の歴史は嫌というほど叩き込まれた。(顔面はセーフというのはバレなきゃあながち嘘ではない。)
「僕だって少しくらいは自由に動きたいんだよ。ほら、髪も隠してるし、普通にしてれば皆と変わらない学生でしょ」
「……他校に押しかけて保健室で騒ぐようなのは普通の学生って言わない」
フェルトの髪留めは、彼を守るために王が世界有数の魔法士に作らせたものだ。その髪留めで結っている間、髪の持つ“本来の”輝きと力を隠し誰の目から見ても普通の髪のように見せかけることができる。またその秘匿性を暴いたり無力化するような魔法をも弾いてしまうという代物だ。結果、今の彼の髪は長さは元のままだが、どこにでもあるような明るい茶髪となっている。
今は隠されているが、彼の王子たりうる容姿の中でも一際目立つ、美しい金の髪。太陽の光を浴びて眩いほどの神秘的な美しさと長さを持つ髪。我が国に伝わる、伝説のプリンセスと同じ輝きを放つものだ。まさに王家の証とも言えるその髪は、国の長い歴史の中で幾度か姿を現した。――彼もまたその一人だった。
「……ねぇ、何しに来たの」
「ご、ごめん、ごめんね。何も言わずに来たのは悪かったよ……。でも姉さんと連絡が取れなくて、隊長もわからないって言うから、一筋の望みをかけて大会を見に来たんだよ……。僕、男子校に、NRCに行ってるなんてそんなこと知らなくていてもたってもいられなくて」
「……連絡を断った私も悪かったって訳ね」
「……それに姉さんが性別まで隠してたなんて、知らなかったんだ」
彼は何か悪いことをしてしまったと悟った時、いつもこの顔をする。見ているこちらが怯むほどに普段の明るさと比べると色の失せた顔に、罪悪感の表れからか下がりきった眉。手元が落ち着かないのか、必ず髪に触れながら、こちらを見るのだ。
「……姉さんって言わないで。ここじゃみょうじって名前の男なの。信じられないでしょうけどこれでもうまくいってたの、本当に。……まぁ今日数人にバレたけど。誰かさんのおかげで」
「……ねえさ……なまえ。今日はもう帰るよ。帰るけど、ひとつだけ。もうひとつだけ我儘させて」
今度は私が手を引かれた。突然のことに反応が遅れる。身を寄せて、自らの編んだ髪を私の肩を跨いでそのまましなだれさせる。ずしりとした重さに、眉を寄せる。
「なに、……ちょっとフェルト!」
「試合で肩怪我してたけの見てたよ。どうして隠すの。……どうしていつも隠れるの」
「……いい、いい、これくらいどうってことないから。大丈夫」
「お願いだから、無理だけはしないで。皆君の帰りを待ってる……今度のホリデーくらい、帰ってきて欲しいんだよ」
「無理? 無理なんてしてない。本当に大丈夫だから。こんな怪我くらいなんてことないし、それに……ここにいる方がよっぽど――」
歌が、流れた。短く、そしてとてもとても静かに。内から光が灯るように輝きだし、私に触れる部分だけがあっという間に美しい金の束となる。優しい低音が耳を擽り、言葉の通りそのまま私の心身へと染みていく。同時に、じんじんと響くように肩にあった鈍い痛みが薄れていくのを感じた。
彼の髪は、魔法の髪。どんな怪我も病気も治すと言われる魔法の髪だ。彼が王子であるということの他に、国で大事に守られる大きな理由。
「っはい! 治った!」と満足したような笑顔で髪を持ち上げる。2重の意味で方が軽くなる。それに反して、胸の内には石のような憂鬱さと憤りが残り続ける。
「大丈夫って言ったでしょ! 私は強いの! あれくらい大した痛みじゃなかった……どうして信じてくれないの……?」
「なまえ……」
「私はもう貴方が知ってる私じゃない。まだ未熟くでも、着実に魔法士として、兵士としてちゃんと強くなってる――」
しかしそれを知る機会を与えていなかったのも私だと言うのも確かなことだった。フェルトはショックを受けたような顔をしているが、きっと私も同じような顔をしているのだろう。
「会えて嬉しいと言う気持ちはある。けど、できればまだ、会いたくなかった」。その言葉を言うだけの非情さは、まだ今の自分は持ち合わせていない。