私を覆い隠すものよ



 時々考えることがある。どうなっていたんだろうか。あのまま、私が存在しないで、物語通りに進んでいたら、オビトは――どうなっていたのだろうか、と。

 結局、私にはうちはオビトを殺すことなど出来なかった。第一印象とはこんなにも大きく影響するものなのか、と改めて思い知らされた。

 何度同じ人生を繰り返したか、今となってはそれも覚えていないが、その中である時ふっと思いついたのだ。

 「オビトを殺せ」というあの声。あの声の言いなりになるのが嫌で、最初は抵抗していた訳だが、結果としてそれも無駄だった。あの声の主からすると、彼が生きていることで何らかの支障があるのだろう。しかし本当にそうだろうか?もしかすると原因はもっと深いところにあるのではないか。

 そう思った私は、ただ一つだけ残されていた道、最初で最後の、結果を知っている以上自決にも近いその道を選んだ。それは希望か絶望か、分かるはずもなかったが、頭に流れ込んでくる客観的な意見などもうどうでもよかった。試す価値はあると、自分自身で判断したからだ。

 慣れとは恐ろしいもので、最早死に対する抵抗や恐怖は薄らいでいた。むしろ、任務中に背後から刺されたり捕縛され拷問されるよりはずっとマシだとすら思っていたのである。いや、あれはもう慣れと言うよりは、精神的に疲れが限界に達していただけなのかもしれない。とにかく、もう何度も繰り返していたからこそ、そのタイミングはもう把握していた。そういった意味では、私にしかできないことだった。

 私はリンの代わりに三尾の人柱力となった。

 何をどうしたって訪れるループの、最後のきっかけがリンの死であるということに、私は気付いていた。そして「あの夜」、既にリンが尾獣の人柱力であったという真実に辿り着けたのは、皮肉にもそのループ経験のおかげである。

 そのリンの役目を、私が成り代わる。これにより、リンも、カカシも、そしてオビトも死なずに済む……はずだ。正直、途中で読むのを止めてしまった私からすると、何が正解だったのかは分からない。何故オビトがあのような姿で生きていたのかも、あの後に何が起こるのかも何も分かってはいない、ある意味危険な賭けでもあった。

 けれど、あの世界は元より彼等のものだった。その中の誰かが欠けてしまうよりは、自分が消えてしまえば円満解決なのではないかと最終的にやけくそになったのは認める。私が死ぬ代わりに、リンが生き残る。そうすれば、余ったピースたる私は元の世界に戻り、誰もがハッピーエンドを迎えられるのではないかと。そんな自分に都合の良いことばかり考えていた。生憎無償で自己犠牲できる程、私は人間が出来ていないのだ。

 最後に見たカカシの顔には苦しみよりも驚きの方が色濃く滲み出ていたのを覚えている。そして、オビト。もうそれぞれがどこに立っているのか、方角すらも把握してしまっていたのに、皮肉なことに最期に彼の姿を目にする前に、全てが終わってしまった。

 まるで昔懐かしいブラウン管テレビを消した時のような、余韻のある音。――これで幸せになれるだろうか。途中でぷつりと途絶えた意識のせいで、それを確かめる術はなかったが、そう思い込むことだけが私に残された唯一の希望だった。

 そうして私を覆い隠していた膜は破れて、そこから現れた懐かしい輪郭に私は涙した。




*




 そういえば、奇跡的にこの令和の時代に戻ってきて、思い出したことがある。

「この書類、まとめといてくれ」

 目が覚める程の赤い髪。私が子供の頃に、本気で恋をするくらいに大好きだったキャラクター。それが彼、赤砂のサソリであるということだ。

 何でこの世界に彼がいるのかとか、何で同じ会社の社員になってるんだとか、意外にもスーツが似合ってないだとか、全ての原因たる某漫画がどこの店を探してもない理由だとか、気になることはたくさんあった。しかし、今更そんな摩訶不思議な出来事に驚くようなことはなかった。それもこれも、あの世界での生活を思えばのこと。複雑なところである。

 とはいえ、戻って来たらこんな近くに昔私が好きだったキャラクターがいるなんて、流石に予想外だった。そもそもちゃんと戻って来れるかも確かではなかったというのに。この状況は、ご褒美のつもりか、私に対するあてつけか。……そう考えてしまう程には、私の中の柔らかかったところは、あの長い時間の果てにひどく捩じれてしまったのだろう。
 正直、「帰って来れた」という事実以上の喜びなど、何にも感じられるはずもなかった。血の流れない日常であれば、もうここがどこだってよかったのだ。


「突然こんなこというと気持ち悪いかもしれないんだけど」
「あ?」
「私、昔サソリが大好きだったんだよね」
「気持ち悪い」
「言うと思った」

 自分の笑い声がからからと通路に響く。反響して戻ってくるその声すらもどこか懐かしく感じてしまうくらいには、笑うのが久しぶりだった。声に関しては、あっちの私の方が高くて好きだったな、なんてくだらないことを思いながら。

 こんな事を言えばどんな反応が返ってくるかは予測出来ていたから、本人に言うつもりはなかったのだ。でもつい、口から漏れてしまったのは、ここ最近残業続きで疲れていたから、かもしれなかった。


「……昔って、俺らこの会社が初対面だろ」

 彼のご尤も過ぎる言葉に私は迷いなく頷く。初対面であることは間違いないのだ。あちらの世界でも会う事はなかったし、一方的に私が知っていたというだけで。

「そうだね、普通に初対面だよ」
「じゃあ何だよ『昔』って…………お前の言ってることがいつも以上に意味わかんねぇ」
「分かんなくてもいいよ。自分のために言っときたかっただけ」
「勝手な奴だな……俺は戻るぞ」

 そう言って荒々しく押し付けられた書類を受け取り、足早に立ち去る彼の背を見送る。この世界では浮き過ぎる赤い髪から、しばらくの間目を逸らすことが出来なかった。


「なまえ先輩って、サソリ先輩みたいな人が好きだったんですね」

 後ろから突如降ってきた声に振り返る。遥か上から私を見下ろすのは、オレンジ色のぐるぐる巻きの仮面。そして少し視線を落とせば、それとはあまりに不似合いな黒いスーツ。

「トビ……聞いてたの?」
「まぁ、たまたま」

 最近出来た後輩。といっても年齢はそう変わらないのもあり、彼のわざとらしい敬語にはあまり尊敬の念を感じられない。見た目も奇抜でどこからどうみても不審者なのだが、不思議ともう慣れてしまった。漫画の中のキャラクターがいるくらいであるから、ツッコんでいてはキリがない。というより、私以外、誰もその仮面について口にすることがないから、私も気にしないことにしている。何かしら彼にも理由があるのだろう。それとも暗黙の了解というやつなのか。まさか、私にしか見えていないなどと、オカルティックな現象であるまいな? ……このような状況だからあながち否定できないのがつらいところだ。自らの順応性の高さに感心する。
 今度、昔は大嫌いだったホラー映画でも見てみようかと一人ぼんやりと考えていると、酔っている訳でもないのに視界が渦を巻いていた。一瞬、理解するのに時間を要したが、トビが体を屈ませて私の視界に無理に入ってきたのだと気付く。

「じゃあ僕も、サソリ先輩みたいになったら、今度こそ嫌われなくて済みますかね?」

 片目しか見えないが、おそらく笑っているのだろう。目の前でふらふらと揺れるその体が今は少し鬱陶しい。そう、たまに鬱陶しいとは思うけれど、別に彼の事を嫌いとは思ったことはない。突然何を言い出すのだろうかと首を傾げる。

「さっきのあれは冗談みたいなものだから、忘れてよ」
「冗談なんて……なまえ先輩、酷いッスね」
「は……なにが?」
何回やり直しても、俺のことは好きと言ってくれなかったくせに

 その幾分か下がった抑揚のない声と取り払われた敬語。ぞわりとした感覚が全身を襲った。じわじわと冷水に沈んでいくように、鳥肌と圧迫感、ぴしりと固まる体によって、一歩後退りするチャンスすらも逃す。彼は、一体何を言っているのだろうか。

 依然として誰も通り過ぎることのない廊下。白と灰色の背景に浮かんでいるかのように揺れる、オレンジ色の面。やはり何もかもがアンバランスで、けれど何度瞬きを繰り返しても変わることはない現実だった。

 ねぇ先輩、と彼が私に呼びかける。

「大事な話が、あるんだ……」

 屈ませていた体を伸ばしたトビに、再度見下ろされる形になる。言葉遣いだけではない、今までとは違う威圧感に、それが身長差から来るものだけではないと悟る。つまり聞き逃すこと許されないと、そんな言葉が続いているに違いない。

 何かがおかしい。トビは見た目からして普通ではないとは思っていたが……この感覚は、焦燥にも似た感情は何だ? どうして私は首を引いてしまうのか。そもそも彼は私にとって一体何なのだろうか。――先輩、なんて呼ばれていただろうか。ふつりとわいた気持ちから目を背けたくなる。


「なぁなまえ、今の俺は好きか? 嫌いか?」
「何を言ってるの……トビ」
「よく見ろ、もうお前が嫌いと言っていた姿じゃない」
「意味が、分からないんだけど」

 会話が、成立しない。じとりと、嫌な汗が頬を流れた。

……そうか……。顔が違っても、俺にはお前が分かったのに……

 ひとつの可能性が脳裏でちらつく。けれど脳がそれを理解することを拒否していた、そんな事はあるはずがないと思っていた。先程まで、確かにトビはトビだったし、そんな気配今まで一度だって感じさせたことがなかったのだ。それなのに。

なまえには俺が、分からないんだな……

 一箇所だけ空いたその穴から仄かに光る赤い目を私は見てしまった。見せつけているのだろうか。私を試しているのだろうか。その目こそが可能性を真実にするということを理解した上で。

 忘れたくても忘れられないあの世界での記憶が濁流のように荒立ちはじめる。その目をまともに見たのは、実のところはじめてかもしれなかった。写輪眼。あの世界に行く前、クラスの男子が嬉々として真似をしていたあの名前を口にする。彼がカカシに預けたもの。そういえば、直接みてはいけないとかなんとか、そんな設定があった気がしたが今更そんな事をいっても遅い。

「うちは……オビト……」

 私の認識が甘かった。サソリがいるくらいだ、それ以外の誰かがいても別段おかしくはないのかもしれない。それにしたって、よりによって出会ってしまったのが彼だとは。これでまた、あの声の主の私に対するあてつけ説が更に強まった気がした。出来れば、一生会いたくないと思っていた。いや、会うことがないだろうと確信していたのに。あの世界とは顔も声も違う今、まさしく「会わせる顔が無い」と、そう思っていた。

 少し遅れて、さっきのサソリの気持ちが分かるような気がした。


「うっ……!」


 突然、鈍い痛みとともに頭に流れ込んできた記憶があった。


 サソリが死んだ後、誰かがそこにいた。大人になって久しぶりに続きから読もうとした時、開いたページに誰かがいた。思えばあのページを見た後からの記憶がない、おそらくあの時に私は世界を超えたのかもしれない。あれは誰だったのか。好きなキャラの死のインパクトに負けて、新しいキャラクターだったのもあってか、名前も覚えていなかった。

 ――けれど今ここにその黒く覆い隠されていた記憶を、眼前にこれでもかと押し付けてくる存在がいる。私は、この面をつけた男を見たことがあったのだ。あの、ページの中で。

「やっと、分かったのか。ここまでして……やっと」

 時々考えることがある。どうなっていたんだろうか。あのまま、私が存在しないで、物語通りに進んでいたら、リンの死を前にした彼は、――うちはオビトは。どうなっていたのだろうか、と。

 きっと、少しおかしくなっていたんじゃないだろうか。こんな風に。

「トビ、……いや、オビト、なの……」

 私の知っているうちはオビトという少年は、快活でお人好しで、でもたまに陰気臭くて、思春期真っ盛りのぬるさを抱いていた。けれど、目の前にいる男からは、全くその面影を感じとることが出来なかった。

 しかし、彼がその顔を覆っていた仮面を外したことによって、私はもう全てを認めざるを得なかった。その表情はあの頃と打って変わって無に等しく、対する私は無性に泣きたくなった。

「……俺はお前が嫌いだったんだ」
「…………私も、嫌いだった、けど」
「じゃあ何故だ。せめて……一度くらいは、刺してしまえばよかっただろう」

 そう言って、自分の胸を指す彼は、どこまで理解しているというのだろうか。確かに何度かはミスをしてカカシやリン達にオビトを狙っていることに気付かれた世界線もあったけれど。もしかして、本当はオビトも私とこのクナイに気付いていたのだろうか。

 ――こんなこと思うべきではないのに、足掻いていた日々を、誰かが知ってくれていたならば、あの時の私が少しだけ報われると、脳裏で自己中心的な考えがちらついてしまった。
 それが、彼に伝わってしまったのだろうか。目の前のオビトは、その瞳をさらにきつくして私を責める。

「なのに、何故、お前が死んだんだ」
「それは……リンを……」
「考えていることは大体分かる。だがお前はリンじゃない。なまえだろ」
「……! 他に道が無かったのよ!」
「最初から道は一つしか無かっただろ!!」


 体が、震えた。


「お前のせいで……苦しんでいたあの日々は一体何だったんだ」
「それは、私だって辛くて……」
「……お前がいなくなったことで、全てが無駄になった。どうにかしようと足掻いていた、俺の努力は何だったんだ」


 彼のその言葉に、私は脳を直接殴られたかのような衝撃を受けた。

「そ、そんなまさか……」
「まさかじゃない、全部あったことだ。お前がリンの代わりに死んだあの日に気付いた。そして、俺は何度もお前を……」


 ……お前が俺を殺せなかった回数、お前を生かそうとしたのに。と、彼は続けた。
 言葉が、頭が、理解が追いつかない。

 オビトは報われていない。そういう、ことなのか。私が気付かぬうちに、よかれと思ってやったことが、裏目に出ていたのか。もし、もし仮に、彼が私と同じように何度も繰り返していたとして。彼が感じる必要のない罪悪感を、苦しみを、いつのまにか押し付けて蓄積させていたのなら?


「けれど結局全部無駄だった」


 そんなことを考えたことがあるはずもなかった。



「ご……ごめんね……オビト。ごめん。でもあれ以外にもう方法が」
「あっただろう。何で俺を殺さなかったんだ……それで全てが丸く収まったのに」
「オビト……それは」
「仲間だと思っていた人間に、嫌いだと拒否され続けた、俺の気持ちが……。そしてその真意を知らされて尚、取り残され、まさに生殺しのような日々を送った俺の気持ちが――」

 お前にわかるのか。とても重い言葉だった。
 恩人であり友人だった人間に、嫌いだと言い続ける苦痛。だが、彼にはそれ以上の痛みを強いていたのだ。

 それでも、私にはどうしてたって彼を殺すことはできなかったし、自分を殺せばよかったという彼の言葉だけは理解できなかった。それを許してしまえば、それこそ、私の生きた時間も無駄になる。あの声に従おうとしても、結局どうすることもできず死んでいったたくさんの私が。そう、私はただ彼に生きて欲しかった。

 しかし、彼にそれを言わせてしまったのも自分であると、同時に気付いてしまった。長い年月で、私が彼に植え付けてしまった劣等感の種は、その心の深いところまで根をはってしまっているのだろう。
 ああそうか、あのクナイは、しっかり刺さっていたのだ。見えないけれど、確かに、何度も何度も私は、彼を。私が吐いた偽りの「嫌い」と言う呪詛とともに、彼を私と同じようにナイフで打ち付けてしまっていたのだ。自分の心を守るためについた嘘が、彼をこんなにも傷付けてしまっていたなんて、思いもしなかった。

 サソリだけでなく、トビも漫画のキャラクターだった。それを仮に知っていたとしても、私は知らぬふりをして今のこの人生を生きていけただろう。しかしうちはオビトは違うのだ。私にとって、オビトはもう「漫画のキャラクター」というだけの存在ではない。それを彼に説明するのは、骨の折れることだろうけれど。


 ごめん、何度目かの謝罪の言葉を口にするも、依然として彼の手の震えがおさまることはない。ズタズタにしてしまった心の傷は、こんなもので消えるはずがない。消えて良いはずがないのだ。

 では私自身に残っているものは? 今の彼に、こんな私が何をしてあげられる?


 ――あぁ、そうか。何よりも、私が一番辛かったのは、彼に嘘を吐き続けること。彼に真実を伝えられたことなんて、殆どなかった。本当に、ひどいやつ。




「ほんとはね」

 だから今こそ、本当の私の声で言いたいことがある。今のこの手には、切り傷も胼胝もない。クナイもナイフもありはしない。お互いを覆うものは、もう取り払われているのだから、それくらいは許して欲しい。ああ、だからこれも押し付けなのか。などと自嘲的に笑うと、目の前の彼の表情がようやく変化を見せた。

 もし押しつけだとして、その後彼に怒られても嫌われても構わないと思った。どうなったって伝えたいことがある。何十回も繰り返した人生で、言いたくても言えなかった、今思えばとても簡単な、一言を。

 そう、はじめて会った時から――。

「オビトを嫌いになったことなんて、一度もないよ」

 でも、そうやってすぐに泣きそうになるところは、やっぱり嫌いかもしれない。